「もう戻ることはない」と思っていた秋田で描く夢を、東京での経験が支えている│B.LEAGUE仕事図鑑
岩谷 学さん
秋田ノーザンハピネッツ株式会社 取締役 営業本部長
「最初はもう“嫉妬”でした」
岩谷 学さんが秋田ノーザンハピネッツの前身である「秋田プロバスケットボールクラブ株式会社」に入社したのは、立ち上げから間もない2010年。東京で営業マンとしてはたらいていた当時、急遽秋田へのUターンを決めた思いを伺うと、意外な答えが返ってくる。
いまや県民の認知度9割を超え、秋田を代表するスポーツクラブとなっている秋田ノーザンハピネッツ。その黎明期を支えてきた中心人物の一人でありながら「達成感や満足感はまだない」と断言する。もう戻ることはないと考えていた秋田で今、岩谷さんが目指す「かけがえのない存在」とは。
Index
当たり前のように「東京へ行く」と考えていた幼少期
——秋田市で生まれ、大学進学で上京するまでの半生を秋田県で過ごされました。故郷にはどんな思いを抱いていましたか?
私の父は秋田出身ですが母は千葉県出身で、長期休みに実家へ里帰りすることも多かったんです。それに付いていく私も、東京に親しみと憧れを抱くようになり“大きくなったら東京に行くものだ”と当たり前のように思っていました。もちろん、故郷の秋田には思い出もあるし、大切な人たちもたくさんいましたが、どこかで「秋田にいても意味がない」と思っていたような気がします。
——秋田への愛着はあっても、東京へ行くのは当然のことだったんですね。
子どものころから目にする雑誌やテレビは東京の情報ばかりなので、そうなるのも仕方なかったのかもしれません。高校生のころ、トヨタカップでマンチェスター・ユナイテッドとパルメイラスの試合があると聞いて、学校をサボって国立霞ヶ丘競技場まで観戦に行ったこともありました。当時、ブームになる前のデビッド・ベッカムが見られたんです。遅刻をしたり仲間と学校を抜け出したりと、「自分の正義」を掲げて今思うと調子に乗っていた時期で、両親には心配をかけたと思います。
東京の大学に進学して上京するときには、二度と秋田に住むことはないと思っていました。友達も7割くらいは秋田から出る選択をしていたんじゃないかな。
——上京後は4年間の大学生活を経て、東京で就職する道を選びます。そこでも葛藤はありませんでしたか?
実際には地元ではたらくことも頭をよぎりましたよ。でも結局「秋田にやりたいことはない」と思っていたし、いまさら実家に戻って両親と過ごすのも、楽だけどお互いに不健康な気がしたんです。当時は「市場価値」という言葉が叫ばれていた時期で、私も東京ではたらいてキャリアを形成する道を選びました。実際には、あまり深く考えていなかったのかもしれませんが。
——東京ではどのような仕事をしていたのでしょうか?
人材系のベンチャー企業で営業をしていました。会社は軌道に乗ったばかりで、私たちは新卒採用3期目。日中はひたすらアポをとって、たまに先輩のスーパー営業マンに同行させてもらう日々です。夜は怖い先輩たちのグラスが空かないように気を遣って……。朝まではたらくときもありましたし、朝まで飲むこともありました。
そんなはたらき方に疑問は持っていませんでしたし、「市場価値」なんて考える余裕もなく、とにかく前のめりではたらくことを楽しんでいましたね。
先を越された「秋田をスポーツで盛り上げたい」という思い
——東京での仕事にやりがいを見出す中で、秋田に戻る選択をしたのはなぜでしょう?
秋田から上京した同級生と飲む機会があったんです。そんな中で地元に帰った友達の話に出てくるのは「あの店が潰れていた」「あの場所がなくなっていた」という後ろ向きな話題が多かった。“故郷が変わっていくときに自分は何もしなくていいのかな?”という当事者意識はあったように思います。もともとスポーツへの関心は自分の中に上位にあって、お酒が入った時に「秋田をスポーツで盛り上げたい」という話もしたこともありました。
だからこそ、東京出身で一つ年上の水野(現代表取締役社長の水野勇気氏)がバスケットボールチームを作る活動をしていると聞いたとき、いてもたってもいられなくなりました。
県民の署名活動からスタートしたチームづくり。代表の水野勇気氏が先頭に立ってチーム設立を目指していた[写真]秋田ノーザンハピネッツ株式会社
——いわば先を越されてしまった。当時はどういった思いでしたか?
最初はもう嫉妬です。自分がやりたいと思っていたこと、やれていなかったことに実際に取り組んでいる。すぐに代表番号に電話をかけました。共同創業者の高畠(元専務取締役 高畠靖明氏)にアポがとれて、2009年の年末に帰省したタイミングで、ファミレスで6時間くらい話をさせてもらいました。
私はトップカテゴリのバスケットボールの試合を見たこともなかったんです。創業者と言葉を交わすことで、バスケットボールチームを秋田で立ち上げて運営していくことの実態がよくわかりましたし、はたらく上で価値観が合う組織だと感じて、すぐにUターンを決めました。
2010年6月、秋田出身の長谷川誠選手との監督契約(のちの選手兼監督)の基本合意を発表し、チームは大きく動き出していた[写真]秋田ノーザンハピネッツ株式会社
——戻ることはないと思っていた秋田へ戻り、新しい仕事はいかがでしたか?
もうなんでもやりました。チームのロゴマークが決まった時、深夜0時に報道各社への配信をしたのも私でした。2010年のbjリーグで初めてチームが勝利した時も、休日のイベントでPRをするために水野と二人で会社にいて、ストリーミング配信で観戦していました。接戦を制した劇的な幕切れだったと記憶していて、勝利が決まった瞬間、水野とジャンプしながらハイタッチしたのを覚えています。今振り返ると、20代半ばの男が二人きりで休日夜のオフィスではしゃぐ姿は異様だったかもしれませんが(笑)、とにかくうれしかった。それまでは「チームの勝ち負けは自分の仕事に影響しない」と思っていましたが、初勝利の瞬間にその考えが完全にひっくり返りましたね。
設立当初、FM ラジオにコマーシャル出演する岩谷さん[写真]秋田ノーザンハピネッツ株式会社
手探りが多いからこそ楽しかったと思います。秋田ノーザンハピネッツは、運営母体や親会社があっての活動ではなく、ゼロから立ち上げた組織。だからこそ、お金がない中でどのようにして認知していただけるか、何ができるのかを自分で考える必要があったし、すぐに取り組むことができました。
県内の各地にチラシを持ってイベントに行き、スケッチブックに手書きで「秋田◯ーザンハピネッツ」と書いて、「◯に入るカタカナは何でしょうか?」なんて手作りたっぷりのクイズをしながらブースへ誘客したことも何度もあります。FMラジオにも出演して「GO!ハピネッツGO!」とラジオDJになりきってコマーシャルをさせてもらったりしたこともありました。忙しかったですが、全部自分がやりたいと思ったことだから苦ではなかったですね。
創業期はさまざまなイベントに足を運び、チームの知名度を上げるために奔走した。一番右が岩谷さん[写真]秋田ノーザンハピネッツ株式会社
今も胸に刻まれている、幻となった“日本一”
——苦労の甲斐あって、今ではチームはほとんどの県民に認知されています。自分たちの取り組みが実を結んだという実感はありますか?
いや、ないですね(笑)。実態としてはあると思うんですが、自分の活動が実を結んだという感覚にはならないです。「秋田ノーザンハピネッツの前座試合に出たことがあります」といった若者に会ったときはチームの歴史を感じることはありますが、どこか他人事です。なかなか自己肯定感にはつながらないですね。
——とはいえ、成果も出ていると思うのですが……。
私以上に走っている人生の先輩たちがいるので、私が満足するわけにはいかないんですよ。「やりきった」という感覚は、まだまだ芽生えないと思います。
実際には2014-15シーズン、秋田ノーザンハピネッツが日本一に王手をかけたときに「やりきった」と思えるチャンスがあったのかもしれません。2013-14シーズンから2年連続でファイナルに進出し、有明コロシアムに車で向かったのを覚えています。決勝戦の終了間際までリードし、優勝を確信したときに逆転負け。悔しかったですし、それ以上に秋田から飛行機や新幹線で観戦に来てくれた皆さんに申し訳なかった。出口に立ち、一人ひとりに挨拶をしました。
2015年5月、有明コロシアムをピンクに染め上げたブースターたち[写真]秋田ノーザンハピネッツ株式会社
——皆さんの反応はいかがでしたか。
どなたも温かい言葉をかけてくれました。「また来年があるよ」と言ってくれる人たちのためにも、「勝たなきゃ」という思いを改めて胸に刻みました。明け方、帰ってきた秋田の晴れ渡った空の青さは忘れられません。この街を日本一にするニュースが届けられたら、どんな世界が広がっていたんだろうと。
——その経験が、今も走り続ける理由になっているんですね。
ただ、勝ち負けだけにこだわるものでもないと思っているんです。秋田ノーザンハピネッツは、一度降格を経験したこともあります。それが決まったホーム試合では、私の目の前で相手チームの選手がジャンプシュートを決め、劇的な形で降格が決まりました。悔しい思いでお見送りの挨拶をしていたとき、初めて試合を見に来たというご高齢の方が「こんな空気の中でやっているのね、すごく楽しかったわ」と非日常を喜んでいたんです。
試合の勝ち負けはコントロールできませんが、コートの外のことはコントロールできる。負けたとしても楽しんでもらえるならありがたいですよね。もちろん、「勝ったらもっと楽しい」ということも伝えたいですけれど(笑)。
——秋田ノーザンハピネッツは、どのような方に応援されていると感じますか?
他のチームの試合会場と見比べると、平均年齢が高いですね。年齢の高い方が多いというだけでなく、お子さんやお孫さんといった二世代、三世代の家族ぐるみ、一家総出で応援してくれる方もいます。それだけ、秋田県民に広く愛されているチームになったことはとても印象的です。その分、「そろそろ優勝してよ」と叱咤激励をいただくことも多いので、皆さんが元気なうちに実現しなければと思っています。
遠く東京での試合であっても、熱烈なブースターが駆け付ける(2014年のファイナル進出時の様子)[写真]秋田ノーザンハピネッツ株式会社
東京での営業時代を乗り越えた経験が、自分をどこか楽にしている
——岩谷さんにとって、B.LEAGUEではたらくとは?
悩ましいですね……。いろいろな言葉が浮かぶけれど、やっぱり「Hungry」でしょうか。仕事は楽しいことばかりではない、むしろ楽しいことなんてほんの一握りです。それでも現状に満足せず、「もっとよくなる」と走り続けることが大切だと思っています。
——ハードワークも楽しんで乗り切ってこられた印象ですが、やはり大変なことは多かったですか?
それはそうですよ(笑)。スポーツビジネスに限らず、好きなことを仕事にするのは基本的にしんどいことです。それはチームの選手も同じで、どんなにキラキラしているように見えても理想と現実のギャップを必ず抱えているはずです。外にいる時は「もっとこうするべき」と評論できていたコンテンツも、「中の人」になった瞬間に無責任なことは言えなくなります。誰かがやってくれるわけではなく、自分が「やらなきゃいけない」。評論家から当事者になり、結果への責任を背負うことこそが、好きなことを仕事にする厳しさだと思います。
中でも私たち秋田ノーザンハピネッツは草の根の活動から始まった組織なので、泥臭いことでもどんどんやっていかなければなりません。
設立から奮闘してきた甲斐あって、いまやチームは圧倒的な知名度を誇る[写真]秋田ノーザンハピネッツ株式会社
——ベンチャー企業ではたらいていた東京時代と重なるところはありますか?
「はたらく」ことの価値観が自分の中にしっかりと根差しているのは、間違いなく新卒ではたらいた経験があるからです。あの頃を乗り越えた経験が、自分をどこかで楽にしている。それがなかったら、「しんどいしんどい」と言っていると思います。急にチャンスなんて来るわけがないんです。目の前にある仕事に向き合って、『できること』を一つひとつ増やしていく。まずはそれしかないと思うんです。そうやってできることが増えると、自然と自分の視座が高くなって、視野も広がっていきます。視座が上がると、かつての低い視界では全く見えなかった新しい景色が見えるようになるんですよね。そこからまた新しい『やりたいこと』が自然と生まれてくる。地道かもしれませんが、そうやって少しずつ自分の世界を広げていくしかないんだと、今は強く感じています。
まったく別業界での経験だとしても、それを今に活かさない、別物だと思う発想はもったいない。東京も秋田も同じ島国の中ですから、別物に見えても地続きです。培ってきた能力を今の環境でどう活かせるか、自分に寄せていく感覚を楽しめることが大切だと思います。
——秋田ノーザンハピネッツは、2026-27シーズンからB.LEAGUE PREMIERに参入しました。今後の展望や目標はありますか?
B.LEAGUE PREMIERへの参入は果たしましたが、チャレンジしなければならない課題も多くあります。一番大変なのは集客です。ホームゲーム30試合のうち、12試合が平日開催。駅の近くで気軽に観戦ができる都心の会場とは環境が違う秋田で、平日に4,000人を集客しなければならない。バスケットボールファンやその延長にいる方にも来場いただけるように、さまざまな動機を用意していく必要があります。
私たちだけでなく、さまざまなゲストの力を借りることもあるでしょうし、プレゼントや特典をご用意することもできる。秋田ノーザンハピネッツはさまざまなサービスを提供している会社でもあるので、試せることはたくさんあると思っています。
こども食堂や道の駅の施設運営、地元企業との連携事業など、さまざまな地域密着の取り組みがチームをかけがえのない存在にしていく[写真]加藤タケトシ
その先にある究極の目標は、「秋田県にとって、社会にとってなくてはならない存在になる」こと。その手段はバスケットボールかもしれないし、展開中の何らかのサービスかもしれません。故郷である秋田の生活において欠かせない、かけがえのない存在になることが、秋田ノーザンハピネッツで成し遂げたい夢ですね。
interview & text:小南 恵介/dodaSPORTS編集部
photo:加藤タケトシ
※人物の所属および掲載内容は取材当時のものです。





















