「ショーは終わらない」 元アイドルプロデューサーが鹿児島で見つけた次の舞台│B.LEAGUE仕事図鑑
脇元 敬等さん
株式会社鹿児島レブナイズ パートナー事業部
「撮られる側は久しぶりすぎて緊張しますね」
そう言いながらも、カメラに向ける表情やポーズはどこか板についている。前職の肩書きを聞けば、何となく腑に落ちた。
プロバスケットボールチーム「鹿児島レブナイズ」でスポンサー営業を担当する脇元 敬等さん。つい2年前までは、東京で複数のアイドルグループのプロデュースに携わっていた。そんな彼が、なぜいま故郷に戻ったのか。エンタメのつくり手が見出した、スポーツビジネスの面白さとは。
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「東京に行けば、何かある」16歳で飛び出した鹿児島
——高校1年で単身上京、という経歴がまず目を引きます。いきさつを教えてください。
生まれは牧園町という霧島の麓にある温泉街で、実家は祖父の代から続く焼き肉店です。両親とも店を切り盛りしていたので、いわゆる鍵っ子でした。実際には、鍵があるのか分からないような田舎でしたが(笑)。
中学から鹿児島市内の中高一貫校に通いはじめたのですが、いざエスカレーター式で高校に上がると味気なく感じてしまって……。もともとエンタメに興味があったので、早くそういう世界に飛び込みたい、東京に出れば何かあるだろうと。本当に勢いだけで上京を決めました。
——大胆というか、無鉄砲というか、すごい行動力ですね。
両親は「行っておいで」という感じでしたが、さすがに担任の先生には止められましたね。高校1年の2学期という中途半端なタイミングだったので「せめて1年の終わりまで待てない?」と。
——でも結局待てなかった(笑)。そのバイタリティは、実家が自営業という環境で育まれたものですか?
創業者である祖父の存在が大きいかもしれません。祖父は、50年以上前に「天孫降臨霧島九面太鼓」という太鼓のチームを立ち上げ、そのまとめ役としても活動していました。地域で祭りをやろう、祭りと言えば太鼓だろうと、当時40万円もする太鼓を購入して仲間を集めたそうです。今では郷土芸能として市の無形文化財にもなっています。思い立ったら自分で始める。人を巻き込んで形にしていく。そういう姿を見聞きして育ったのは、少なからず影響していると思います。
——東京に出てからの具体的なプランはあったのですか?
まったくノープランでした。まずは向こうの高校に通いながら、テレビ番組制作の裏方としてアルバイトする生活を3年間続けました。音楽が大好きだったので、いろんなライブハウスに通い詰めるうちに、プロデューサーなど業界の方と自然に知り合うようになって。その流れで、あるアイドルグループのマネージャーとして声をかけられたのが、キャリアのはじまりです。
毎試合が“Zepp満員”? プロデューサーが驚いたB.LEAGUEの熱気
——アイドルプロデューサーとしての活動をはじめたのは?
19歳のときです。これもほとんど勢いでした。マネージャー時代に「もっとこうしたらおもしろくなるのに」と感じる場面が多かったんです。だったら自分でやってみようと。とはいえ、すべてが手探り。最初のメンバーも知り合い伝いで探しました。そこから、「こんなグループを作りました!」と出演させてくれそうなイベントや事務所をあちこち回るうちに、曲を書いてくれる人が現れ、衣装を作ってくれる人が現れ、少しずつ仲間が増えていきました。
アイドルプロデューサー時代の脇元さん。曲や衣装の発注からディレクション、ライブ当日の音響や物販対応など、グループ運営のほぼすべてを統括していた[写真]本人提供
——その後、脇元プロデュースのグループは地上波出演やタイアップ、オリコンランクインを果たし勢いづいていきました。
幼い頃から「サーカスの団長になりたい」とよく口にしていたんです。自分が思い描いたものが、ステージで形になってお客さんが喜んでいる。その様子を高いところで眺めてみたいと。大きなワンマンライブが実現して、満員になった会場の一番後ろから見えたのは、憧れの景色そのものでした。自分が広げた風呂敷にこんなにも多くの人が乗ってくれている。その感覚は今も忘れられません。
——順調にキャリアを重ねていたなかで、鹿児島へ戻る転機が訪れます。
最大3つのグループをプロデュースしていましたが、それなりに数字やお客さまもついてきて、自分の中では、やり切った感覚がありました。運営も周りに任せられる状態になって、ある意味自由に動ける身になったんです。そんなタイミングでレブナイズの話を耳にしました。自分が鹿児島にいた頃はプロスポーツチームなんてありませんでしたし、地元のチームを応援するという感覚もなかった。「今鹿児島ってそんなことになっているんだ。楽しそう!」と、これもまた勢いで求人に応募したんです。
——脇元さんらしい決断ですね。具体的にはレブナイズのどんなところに惹かれたのでしょうか?
実際に試合を観戦したのですが、「鹿児島でこんな興行、エンターテインメントをやっている人たちがいるんだ」と素直に驚きました。今レブナイズは、平均約3000人の観客が来てくださっています。これって、僕らのいた業界でいうとライブハウスのZeppを毎回満員にするようなもの(笑)。「Zeppに立てたら食っていける」という世界でしのぎを削っていたので、その集客のすごさは身をもって分かります。さらに衝撃だったのは、フロントスタッフが20人もいないこと。そんな少人数で年間約30試合をやりきっている。これは飛び込んでみる価値があるなと直感しました。
地域との結びつきが強いチームとして知られる鹿児島レブナイズ。2025-26シーズンはB2リーグでプレーオフに進出。ホームの西原商会アリーナでは改修計画が進められており、さらなる観客動員の拡大にも期待が高まる[写真]株式会社鹿児島レブナイズ
焼肉屋、段ボールメーカー、クリーニング店——。それぞれの「応援の形」
——担当されている「スポンサー営業」という仕事について教えてください。営業先はどのように開拓するのですか?
リストをもとに架電することもあれば、飛び込みで訪問することもあります。入社間もない頃は、チームのポスターを持って1日20~30社を回りました。鹿児島は広いので車の移動だけで数時間かかることも珍しくありません。商談先へ向かう途中で見つけた看板や前を走るトラックの社名を調べて、まだ当たっていなければアプローチしてみる。最初はそういう地道なこともやっていました。
——スポンサーには多種多様な企業が名を連ねていますね。
協賛金額もさまざまです。前職では近しい業種の人とばかり仕事をしていたので、たくさんの企業の方と出会えることは新鮮ですね。ついこの間まで東京のライブハウスを主戦場にしていた人間が、今は一次産業や二次産業の工場などをメインに訪問している。そんな振れ幅が、我ながら不思議ではありますが(笑)。
——提案の際に心がけていることはありますか。
その企業とレブナイズとの間にどんな親和性を見出せるかを常に意識しています。「チームと客層が似ていそうだ」とか「地域貢献に関心がありそうだ」といった、企業の特徴や想いを汲み取りながら、どんな関わり方ができそうか考えるんです。
必ずしも協賛金を直接いただく形ばかりではありません。分かりやすい例が、実家の焼き肉屋です。試合の日にはスタッフやボランティアの方のお弁当を提供してもらい、その分をスポンサー費に充てています。「自分たちのなりわいでチームを応援したいと感じる人たちも多いと思う」という両親の一言がきっかけでした。
——身近なところに気づきがあったのですね。
それ以来、お客さまのビジネスをどんな風にチームの応援につなげられるかを考えるようになりました。たとえば、試合会場のごみ箱もそうです。以前は大きなバケツを使っていたのですが、ある段ボールメーカーさまに協賛いただき、今は段ボール製のごみ箱を設置しています。ユニフォームをクリーニングしてくださる企業もありますし、美容室を営むスポンサーさまには、選手やスタッフ、アカデミーの子どもたちのヘアカットをお願いしています。
——そんな協賛のカタチもあるんですね! いわば、その企業らしいスポンサーシップをプロデュースする仕事とも言えそうです。
「協賛が難しいから終わり」という関係には、できる限りしたくないと思っています。もちろん協賛金をいただく一般的なスポンサー契約も多いですが、その場合でもチームと一緒に何かできることはないか、いつも模索していますね。
段ボールメーカーの協賛で開催したクラフトキット制作体験イベントの様子[写真]株式会社鹿児島レブナイズ
[写真]株式会社鹿児島レブナイズ
鹿児島でどれだけの渦をつくれるか
——脇元さんにとって、B.LEAGUEではたらくとは?
昔から「Show must go on」という言葉を座右の銘にしています。スポーツも興行の一つです。観客が会場に入ってきた瞬間から、試合が終わるまで、そのショーを全うしなければいけない。スポンサーへの活動も含めて、幕が上がるまでに準備をどこまでできるか。ショーを止めないために何ができるか。それを考えて動くのが自分の役割かなと。
——チームの昨シーズンの売り上げが8.4億円。最上位カテゴリーである『B.PREMIER』加入条件である9億円ラインも視野に入ってきました。
売り上げの半分以上がスポンサー収入なので、屋台骨を支えているという感覚は営業メンバー全員が持っていると思います。まだまだ発展途上のチームですし、これからどこまでレブナイズを大きくできるか。その過程のど真ん中にいられるのはおもしろいです。
——プロデューサーの目を持つ脇元さんだからこそ、仕掛けられることもありそうです。
昔から鹿児島はPRがもったいないなと思っていました。お茶の生産量日本一とか、うなぎの養殖量日本一とか、強いアピールポイントがあるのに、うまく活かせていない。スポンサーの中には、挑戦的なビジネスに取り組む企業もたくさんあります。そうした鹿児島の産業や企業とレブナイズを掛け合わせて、どんな発信ができるのか。可能性を考えるだけでワクワクします。
——舞台は東京から鹿児島へと変わりましたが、脇元さんの仕事はずっと地続きのようにも見えます。
東京にいた頃より今のほうが忙しいくらいですが(笑)、たしかに続いている感覚はあるかもしれません。実はレブナイズの営業メンバーには僕の前職の仲間もいます。「一緒にやってみない?」と誘ったら、二つ返事で鹿児島まで移住してきてくれたんです。
かつては脇元さんの右腕として、グループのマネージャーを担当していた氏家さん(左)。「ゼロからイチをつくってきた人が、新しい環境でどんな化学反応を起こすのか見てみたかった」と、背中を追うように鹿児島へ。現在は同じ営業部で切磋琢磨している[写真]本人提供
僕が変わらないことがあるとすれば、「おもしろくないですか」「よくないですか」と熱量を込めて人に話してきたこと。そこにたくさんの人がついてきてくれた。そうやって自分が関わった人たちと、次は鹿児島でどれだけの渦をつくれるか。今はそんなことばかり考えています。
interview & text:大迫龍平/dodaSPORTS編集部
photo:三橋雅志
※人物の所属および掲載内容は取材当時のものです。





















