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レジェンドの原動力は「支える人たち」のよろこぶ姿

原田 雅彦さん

元スキージャンプ日本代表/全日本スキー連盟会長/日本オリンピック委員会理事

5大会連続で冬季オリンピックに出場し、世界選手権と通算で日本人最多9個のメダル獲得を果たしたスキージャンプ界のレジェンド、原田雅彦さん。現役引退後は指導者の道を歩み、日本オリンピック委員会(JOC)理事や全日本スキー連盟(SAJ)理事を務め、2024年にはSAJ会長に就任。現役アスリートの支援・育成に従事している。

「周囲の支えがあってこそ、現役時代の活躍があった」。そんな思いを抱き、スポーツ界全体の振興にも取り組む原田さんに、スポーツを通した多様な「支える人」と「支えられる人」の活躍について話を伺った。

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    日本中に感動を与えたレジェンド選手であり、多くの人の記憶に残る原田さん[写真]山内優輝

    ジャンプとの出会いと活躍を支えた、多くの偶然と周囲の人たち

    ———原田さんがスキージャンプと出会ったきっかけを教えてください。

    私の出身は上川町という北海道の小さな町です。冬は雪がたくさん降るところで、私の家の裏手にあったスキー場が遊び場でした。毎日雪まみれになりながら友達と遊んで、ゲレンデスキーにも飽き始めた小学3年生のころ、そこにあったジャンプ台から飛び立つ子どもたちの姿を見たことが、スキージャンプとの出会いでした。「面白そう、どんな気持ちなんだろう?」と思ったとき、すぐに飛べる環境があったことはとても幸運だったと思います。

    ———初めて飛んだときのことは覚えていますか?

    当時、地元で活動していたスポーツ少年団のお兄さんたちが「ジャンプやるのかい?一緒にやってみよう」と声を掛けて導いてくれました。もちろん、いざジャンプ台の上に立つと「飛び出したら何が起こるんだろう」と怖かった。それでも覚悟を決めて飛び立ったときの感覚は、いまでも忘れられません。ほんの7メートルほどの距離だったと思いますが、ふわっと体が浮かぶあの感覚は、飛んだ人にしか味わえません。「もっと遠くまで飛んでみたい」と競技にのめりこみ、その後の競技人生をも支える原体験になりました。

    ジャンプの楽しさを生き生きと語る原田さん[写真]山内優輝

    ———その後は全国大会での優勝など、小学生から才能を発揮していきます。

    もちろん練習は重ねましたが、幸い運動神経が良かったのか、指導されたことや言われたことをすぐに再現できる子どもだったと思います。スポーツ少年団にはスキージャンプ経験のある指導者がいて、とても厳しい教えを受けました。大会で優勝しても「決してうぬぼれずに次に進みなさい。まだまだ先にも目標があるはず」と言われたことはいまでも覚えています。「現状に甘んじるな」という指導は、現役時代だけでなく今でも心に刻まれています。

    厳しさにへこたれずにスキージャンプを続けられたのは、ジャンプが好きだという気持ちに加えて、両親がよろこんでくれるのがうれしかったから。普段は内気な子どもでしたから、スキージャンプで結果を出すようになると「ええっ!」とびっくりしてくれるんです。大人になってからも、周囲の人をよろこばせたいという気持ちが大きなモチベーションなのは、ずっと変わらないですね。

    ———その後の競技人生にも影響を与える出会いや経験があったのですね。

    競技を通して学校の友達以外と関わる機会が増えて、新しい人間関係もできました。やがてオリンピックや国際大会で肩を並べる選手たちも、思い返せば小学校のとき一緒に合宿をして、同じ釜の飯を食べてきたライバルたちなんです。あの大会では勝ったとか、あのときは悔しい思いをしたとか、経験し合いながら成長してきました。

    高校入学後は、環境が変わって新たな指導者や仲間とも出会いました。「将来、日本を代表する選手になる」「世界を目指して頑張りなさい」と言われることが増えましたが、正直実感がわいていませんでした。高校生なので、目の前のことでいっぱいいっぱい。大人と肩を並べる中でも結果を出して注目されていましたが、上位カテゴリーのレベルの高さに悩むこともありました。

    そんな中で、同級生の友達もできて、高校生らしい生活を送れたことが励みになりました。寮生活で寂しい思いもしていた中で、友達と日常を送り、応援に支えられた経験が、人間的な成長にもつながったと感じています。

    仲間たちと共に研究した「V字ジャンプ」で歴史を変えた

    ———学生時代は、世界での活躍を意識していなかったのですね。

    当時、日本のスキージャンプは低迷期で、「世界になんて敵うはずがない」というあきらめが漂っていたように思います。スキーで生きていこう、世界を目指そうと考えられるようになったのは、高校卒業後に雪印乳業スキー部(現雪印メグミルクスキー部)に入った後でした。

    転機は「V字ジャンプ」です。それまで私たちは空中で左右のスキー板を揃えて飛んでいましたが、現在のV字型に開く姿勢で大きく飛距離を伸ばす進化系のフォームが登場し、「これだ」と思ったんです。指導者の中には、新たなスタイルを取り入れることに反対し「ここまで来れたんだから、いまのまま頑張ればいい」という意見もありました。しかし、最後に決めるのは自分です。背中を押したのは、少年時代から変わらない「結果を出してみんなに喜んでもらいたい」という思いと、「現状に甘んじるな」という教え。そして「少しでも遠くに飛びたい」という気持ちでした。

    まだV字ジャンプを教えられる人はどこにもいません。最初は海外選手の真似事からスタートです。空中でアクロバットをするような感覚で、初めてのジャンプくらい怖かったですね(笑)。しかし、何回か練習するうちにコツをつかみ、風を捉えられているという手ごたえを感じるようになりました。スキージャンプの歴史が変わった瞬間であり、「これならアスリートとしてやっていけるぞ」と思えた瞬間でもありました。

    日本のライバルたちとともに洗練させたV字ジャンプ[写真]Clive Brunskill/Getty Images

    ———V字ジャンプは、周囲の選手も同様に研究をしていたのでしょうか?

    子どものときから切磋琢磨し、競技で活躍するライバルたちもV字ジャンプに取り組んでいて、何度も話し合いをしましたね。海外を転戦する中で顔を合わせる時間が増えると、スキー板はどれくらい開くんだろう、どうやったらもっと飛べるんだろうと、みんなで考えていました。誰も知らない未知へ挑む、とても楽しい時間でしたね。そのときに選手でいられたことも、私にとって運命だったと思います。

    海外選手の生まれ持った体格を生かしたジャンプに対して、日本人のV字ジャンプは器用さを生かした操作のジャンプ。私たちの成績が伸びて注目を集めるようになると、海外の選手もフレンドリーに話しかけてくるようになるんです。私も最初は外国人にプレッシャーを感じていたんですが、同じ競技の仲間としてお互いの情報を交換したり、地元への遠征に誘ってくれるようになったりと、交友関係が一気に広がりましたね。

    ———活躍の舞台となった雪印乳業スキー部では、社会人としても成長の機会が多かったそうですね。

    入社当初は、午前中は社員の皆さんとデスクを並べて勤務して、午後から練習という生活でした。私の配属はアイスクリーム課。先輩の仕事を手伝う形で業務にも関わり、「大人の世界になったな」と感じていました。営業の方と一緒に取引先を訪問したり、トラックから商品を搬入したりしていると、お客様から「スポーツ選手なんだって?金メダルをとれるようにがんばれよ」と声を掛けていただけてうれしかったですね。その後本当に金メダルを獲得できて、あの方はびっくりされたかな(笑)。

    のちに競技中心の生活に移りましたが、マネージャーがついて、会社の事務局が何から何までやってくれて、スキーに集中できるとてもありがたい環境でした。会社の予算で活動する中で、「ただジャンプが好き」だけではない、仕事としてスキーに取り組む責任感も芽生えたように思います。

    今も雪印メグミルクスキー部のアドバイザーを務めている[写真]山内優輝

    挫折からの復活を支えてくれたのは家族、ライバル、関係者、そして観客たち

    ———V字ジャンプ習得後は世界を舞台に活躍し、オリンピック出場を果たします。

    初出場は1992年のフランス・アルベールビル大会で、たくさんの人に支えられたからこそ出場できたという実感がありました。4位入賞を果たし、そうなるといよいよ「メダル」への期待が大きくなっていきます。プレッシャーが最高潮になったのは、1994年のノルウェー・リレハンメル大会。普通に飛べば金メダルという場面で本来のジャンプができなかった。あのときは、新聞にも「引退か」と書かれていて、競技者として揺れ動いていました。

    それでも、スキージャンプへの情熱は消えなかった。子どもが生まれたばかりということもあって、いち早く復活して元気な姿を見せたいという思いが募り、今度は焦りが生まれました。大会後、うまくいかず空回りする私を支えたのは、妻が言った「肩に力を入れてできないことをやるよりも、自分らしく飛んだ方がいいんじゃないですか」の一言。その言葉で、ただ遠くまで飛びたいと思っていた自分の原点に戻れた気がします。

    波乱万丈だった連続5大会の冬季オリンピック出場[写真]Al Bello/Getty Images

    ―――1998年の長野オリンピックでは見事な復活を遂げましたが、一筋縄ではいきませんでした。

    リレハンメルの4年後に、今度は日本で行われるオリンピックの舞台に立てる。それも、私の競技人生における奇跡の一つだったと思っています。あのときも寄せられる期待は大きく、日本中のファンや企業、関係者が「長野」に向かっているというプレッシャーはありました。ですが、それをプラスに変えられるくらいの自信をもって臨めました。さまざまな状況を想定し万全の状態だったのですが……。

    個人で船木和喜選手が金メダル、私も銅メダルを獲得し、団体でも金メダル確定だと思われていた中で、天候は期待を打ち砕くような猛吹雪に。前が見えないほどの雪で力を発揮できないまま、2本目のジャンプが中止になりメダルを逃すことだけが怖かったです。

    そこでも、さまざまな人が私たちを支えてくれました。普段はライバルである日本のテストジャンパーたちが、身体を張ったテストジャンプで誰一人転倒せず、2本目のジャンプが飛べることになったんです。それだけでなく、SAJの役員や指導者、全国の関係者が降りしきる雪の中で懸命に除雪をしてくれました。そして4万人の観客の皆さんは誰一人帰らず、勝利を信じて待っていてくれた。すべての人たちの声援を受けて飛んだジャンプで、見事金メダルを獲得することができました。みんなが勝利に向かって一つになった、不思議なときでした。

    競技への参加も、支えることも、応援することも「すべてがスポーツ」

    ―――日本中に希望を与えた大ジャンプの後も2度のオリンピック出場を果たし、2006年に競技を引退。雪印メグミルクスキー部やオリンピック総監督として選手育成にも携わられました。

    たくさんの方に支えられながら、最後まで選手として自分の可能性を追求し、何の悔いもなく競技人生を送ることができました。今度は私が支える立場になりましたが、マネージャー業は想像以上に難しかったです。ジャンプのことばかり考えていたところから、選手の生活までマネジメントしたり、お金の管理をしたり……。同時に、自分が支えられてきたありがたみを実感しましたね。

    指導の面でも「伝えたいことが伝わらない」という難しさに直面しました。それでも選手と一緒に壁を乗り越えて、目標を達成してくれる姿がとてもうれしかった。私は周囲がよろこんでくれることが現役時代のモチベーションでしたが、こんなにうれしいものなのかという発見もありました。

    支える立場になっても「選手と共に成長しています」と語る原田さん[写真]山内優輝

    ―――今の世代の選手たちを指導する中で、どういった点に苦労しましたか。

    選手たちはみんな情報をたくさん持っていて、自分の意見もしっかりしています。大変すばらしいのですが、ときにはそれを崩さなければいけないときもある。私がV字ジャンプに挑戦したときのように、最後は自分で納得して決めるしかないので、その話し合いは難しいですね。いまも選手と一緒に、スキージャンプというスポーツを通して成長している実感があります。「もっと遠くまで飛びたい」という思いは共通ですから。

    現役世代にアドバイスをするとしたら、私が「自分らしいジャンプ」に立ち返って肩の力が抜けたように、何事もシンプルに考えるのがいいと思います。情報が増えるとつい遠回りしたり、頑張りすぎたりしてしまいます。自然体で目の前のことに夢中になれば、練習にも身が入り、目標も達成できるはずです。

    ―――JOC理事や全日本スキー連盟の理事を務め、昨年は全日本スキー連盟の会長に就任されました。スポーツ界全体をけん引する立場として、アスリートたちとどんな未来を実現したいですか。

    さまざまな競技に携わる立場になったことで、改めて世界が広がったと感じています。競技によって見える景色はまったく違いますが、競技をする人も支える人もとにかく努力して、目標を達成することは一緒です。そんなスポーツを通して最終的に実現したいのは、「多くの人が笑顔になる」ことですね。

    競技をする人も、応援する人も、支える人も、すべてひっくるめて「スポーツ」です。大リーグの選手をテレビで応援するのだってスポーツなんです。どのスポーツにも感動があり、それは大きな力を持っています。運動神経がいいか悪いか、どんな属性を持っているか関係なく、みんなが一つになれることがスポーツの一番の魅力。アスリートたちとともに感動を届け、スポーツの力で笑顔になれる人を増やしていきたいですね。

    Profile

    原田 雅彦(はらだ・まさひこ)さん

    1968年5月9日生まれ、北海道川上町出身。1987年、雪印乳業(現雪印メグミルク)入社し、1991年に世界選手権に初出場。1992年のアルベールビルオリンピック、1994年リレハンメルオリンピック、1998年長野オリンピック、2002年ソルトレークシティオリンピック、2006年トリノオリンピックと計5回の五輪大会に出場した。いち早くV字ジャンプを習得して世界への扉を開き、日本のスキージャンプ復活の立役者となる。2006年に引退後は雪印メグミルクに在籍しながら指導者としての道を歩み、雪印メグミルクスキー部の総監督や北海道スキー連盟会長、日本オリンピック委員会(JOC)理事を歴任し、2024年に全日本スキー連盟(SAJ)会長に就任。

     

    interview & text:小南恵介/dodaSPORTS編集部
    photo:山内優輝

    ※人物の所属および掲載内容は取材当時のものです。

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