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甲子園優勝投手の新たな目標 「スポーツを通じて家族と共に成長したい」

吉永 健太朗

パーソルキャリア株式会社 リクルーティングアドバイザー/元社会人野球選手

日本中の高校野球好きを虜にした男、吉永は現在、総合人材サービス会社のパーソルキャリア株式会社に在籍し、野球とは一線を引いた新たな人生を歩んでいる。誰もがプロ入りを期待した男は、なぜ今のキャリアにたどり着いたのか。野球との出会いから挫折、新しい目標との出会いまで、彼の半生に迫った。

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    2009年に野球の名門・日大三に入学すると1年秋よりベンチ入り。2年秋からはエースとして頭角を現し、3年時は代名詞とも言える魔球「シンカー」を武器に夏の甲子園優勝という偉業を成し遂げた。順風満帆に思えた人生に何があったのか、これまでの人生を振り返ってもらった[写真]本人提供

    「つらさも含めて好きだった」
    甲子園を沸かせた男の野球人生

    ———甲子園での大活躍はいまも記憶に新しいですが、吉永さんの野球との出会いはどのようなものだったのでしょうか?

    両親がバドミントンに打ち込んでいたので、幼少期からスポーツに触れる機会が多かったんです。いろんなスポーツに触れる中で僕の肩が強いことに気づいたみたいで、小学校1年生から少年野球チームの南平アトムズに所属して、本格的に野球漬けの毎日が始まります。

    ———バドミントンをやっていたお父様から見ても、野球をやらせたいと思えるほど肩が強かったと。すでにエースの片鱗が見えますね。

    僕としてはただ楽しんでいただけなんですが(笑)。ただ、チーム内の記録会でいきなり好成績を収め「スーパー1年生が入った!」と言ってもらって、うれしかったことは今でも覚えています。

    ———そこからは中学で調布リトルシニア、高校で日大三と強豪チームの一員として野球に打ち込むことになります。楽しんでやっていた野球が、一変して厳しいものに変わりますが、そこはいかがでしたか?

    幼少期から父がつくったメニューをこなしていたんですが、父もバドミントンで全国を目指していた人。練習メニューも本格的で、シャトルラン1週600mを5セットひたすらくり返すといったような内容でした。それがとにかく厳しかったので、中学、高校に入ってもつらさという面では、そこまで変わらなかったです。

    「思い返せばかなりハードな野球人生でしたが、不思議とつらくはなかったですね」と笑顔で答える吉永[写真]渡邉彰太

    ———日大三に入学してからは、皆さんの記憶に残る活躍を見せます。高校時代を振り返って、特に印象的なことはなんでしょうか?

    もちろん甲子園で優勝した瞬間が一番ですが、それ以外だとやはり初登板のときでしょうか。初登板は選抜の準決勝。大舞台でしたが緊張はほとんどありませんでした。ただアドレナリンが出すぎたのか、当時の最速から10km以上も速い143kmのストレートが出たんです。けれどストライクが入らない。球速を落として調整しましたが、結局ホームランを打たれて交代というほろ苦いデビューでした。ただ、この経験が今後の野球人生での自信にもつながったので、今でも印象的な出来事です。

    日本中の高校野球好きを虜にした魔球「シンカー」。その独特な握りを再現してもらった[写真]渡邉彰太

    ———そこからの成長は本当に目覚ましく、3年時に見事、甲子園優勝を果たします。誰もがプロ入りを確実視していましたが、意外にも早大への進学を決断しました。

    結果だけ見るとプロ入りも考えられたかもしれません。ただ、個人的には「たまたま活躍できた」という印象が拭えなかったんです。投球フォームが安定せずけがも多かったので、そのままプロに行っても活躍は難しいだろうなと。

    プロの本格的な指導のもとでフォームづくり、体づくりに打ち込めば活躍できたかもしれませんが、すべて「たられば」の話です。トータルで考えた結果なので、後悔はないですね。

    最速149キロの直球と魔球シンカーを武器に戦い、名門日大三のエースとして甲子園優勝という偉業を成し遂げた[写真]本人提供

    ———1年生時の東京六大学リーグでの最優秀防御率とベストナイン選出、全日本大学野球選手権での優勝とMVP選出という華々しい結果を最後に、以降はけがに悩み、2019年に野球人生に終わりを告げます。

    フォームもどんどん悪くなってけがも増え、プロとかそういう状況ではなくなりました。極めつけはJR東日本時代のけがです。ヘッドスライディングの際に右肩を大けがして以降、鎮痛薬を毎日飲みながら、痛みに耐えて投げる日々。2019年のシーズン終了後には、ついに退部を言い渡されました。野球人生が終わることは悔しかったですが、「明日は投げられるのか」という不安や痛みからの開放感もあり、複雑な気分でしたね。

    「痛みや不安から眠れない日々が続きました」と、けがに苦しんだJR東日本時代を振り返る[写真]本人提供

    「家族に負担をかけたくない」
    野球を離れて下した、大きな決断

    ———引退前、2018年にはご結婚もされていますが、奥様の反応はいかがでしたか?

    「お疲れ様」と、ただ一言もらいましたが、そのシンプルな言葉が何よりうれしかったですね。

    ———現役引退後はJR東日本の職員として、都内のターミナル駅に駅員として勤務。みどりの窓口での対応や改札業務などに従事することになります。

    野球以外のことに打ち込むことは初めてでしたが、とてもやりがいを感じていました。みどりの窓口の端末発券機はブラインドタッチできるようになって、ちょっとした自慢でしたね(笑)。ただ、仕事はとても面白かったんですが、深刻な悩みも出てきて……。

    ———どんな悩みがあったのでしょうか?

    ちょうど長男が生まれたんですが、長男は喘息を患っていたので、夜間に病院に駆け込むことが多かったんです。ただ駅員の仕事は夜勤も多く、休みもシフト制。日中の子育てだけでなく、夜間も妻に任せきりにしてしまう生活をなんとか見直したいと思ったんです。

    「家族にはだいぶ負担をかけたので、満足できる環境にいきたいと思っていました」と話した[写真]渡邉彰太

    ———そんなときに、現在勤めるパーソルキャリアに出会ったんですね。

    パーソルキャリアは土日休みでリモート勤務も可能なので、ワークライフバランスが改善されるイメージがわきました。加えてスポーツ事業にも力を入れていて、元アスリートの先輩方も多数活躍されていると聞きました。将来的にそうした仕事にも挑戦したいと思い、転職を決意しました。

    ただ転職はめちゃくちゃ反対されましたね(笑)。特に妻からはすごかったです。JR東日本にいれば将来の安定は確約されているようなものですから、気持ちは分かります。ただそれでも家族の時間を大切にすることが、私にとって大事だという思いは変わりませんでした。

    そこからは説得の日々です。1年弱くらいは話し合いが続いたと思いますが、最終的に納得してくれ、無事に転職が決まりました。

    「営業のプレゼンみたいな説明をしていたので、今の仕事の練習ができていたとポジティブに考えています(笑)」と転職活動中のことを笑顔で振り返った[写真]渡邉彰太

    ———現在は人材紹介サービスの法人営業担当としてご活躍されていますが、未経験での入社、最初は慣れないことも多かったのではないですか?

    パソコンをほとんど使ったことが無かったので、そこが一番苦労しました。ただ社内研修が手厚かったのと、同年代の仲間のサポートもありすぐに慣れることができました。周囲のやさしさに感謝ですね。

    ———野球経験が活きていることはありますか?

    上司からは「コツコツやり遂げる力がある」と言っていただけているので、野球で培った辛抱強さが活きているのかもしれません。あと、お客様や社内の仲間など、とにかく関わる人が多いので、チームスポーツで培ったコミュニケーション力を活かせていると感じることは多いです。

    もちろん上手くいかないこともあります。野球をやっているときは頭の中で考えて行動することが多かったのですが、いまはマルチタスクを求められるので、これまでのやり方では失敗する場面が増えてきました。今はアドバイスをもとにリスト化と効率化を意識して行動していますが、まだまだこれからといったところです。

    とはいえそうした困難も、野球の練習に比べたら大したことはないので、すぐに乗り越えられるはずです。もしかしたら、そうやってポジティブに考えられることが、野球をやってきて一番よかったことかもしれないですね。

    「野球で一番鍛えられたのはメンタルかもしれません(笑)」と現在の仕事について笑顔で語った[写真]渡邉彰太

    新たな目標は「スポーツを通して子どもと成長したい」という思い

    ———充実した日々が送れているようですね。聞くところによると、プライベートでは野球を原型としたスポーツ「Baseball5(ベースボールファイブ)」のチーム「Hi5 Tokyo(ハイファイブトウキョウ)」を立ち上げたとか。

    なにか新しくスポーツを始めたいなと思っていたとき、日大三で同級生だった宮之原さんに声をかけていただきBaseball5を始めました。やってみたらこれが面白くて一気にのめりこみましたね。老若男女楽しめますし、野球の経験を活かしながら、子どもと一緒に取り組めるスポーツとして最適だと思いました。

    Baseball5は男女混合の1チーム5人制、5イニングからなる野球・ソフトボールの新しいストリート競技。このスポーツの虜となった吉永は、自身のチームを設立した[写真]本人提供

     

    自分のチームを立ち上げた理由は、息子も一緒にスポーツを通して成長してほしいと思ったから。小学生主体のジュニアチームも作っているので、自分自身、選手として参加しながら、ジュニア選手育成にも関わることで、最終的に息子と一緒に一番になることが目標です。

    ———甲子園を沸かせた吉永さんなら、すぐにでも一番になれそうですね。

    ありがとうございます。頑張ります!

    ———ここまで吉永さんの半生を伺ってきましたが、転職の経緯から以降のすべての行動には、「子どものために」という意志が感じられます。そこにはなにか理由がありますか?

    反面教師ではないですが、僕は幼少期、両親とスポーツ以外の時間を過ごした記憶があまりありません。野球で結果を残せたので、それはそれでいいんですが、やっぱり自分の子どもにはいろんな経験をして、大きく成長してほしいんですよね。

    だから勉強もスポーツも、いろんなことに挑戦できるベースをつくってあげたいと思っているんです。Baseball5は、やりたいことを見つけるための一つの手段。その中で「一つのことに本気で打ち込んだ経験」は、今後の人生で必ず活きてくるはずなので、一緒に日本一を目指し、日本一になった父親の姿を見せて、なにか感じることがあればうれしいなと思っています。

    「いつか日本一を実現し、息子に一番の景色を見せてあげたいですね」と、Baseball5への思いを熱く語った[写真]本人提供

    ———そうした思いは、仕事における目標にもつながっていますか?

    それはもちろん! 息子への取り組みを通して、子どもたち世代に向けたスポーツ教育にも興味がわいてきました。誰もがスポーツに打ち込むことができ、必要な教育を受けられる環境をつくりたいですし、子どもたちを支える親世代へのサポートもしていきたい。そのための事業を起こせたらいいなと思っています。

    所属するパーソルキャリアにはスポーツ事業という土台がすでにあるので、近い将来、必ず形にしていきたいですね。親の立場になったからこそ見える景色もありますし、これまでの経験を踏まえて、自分にしかできないことがきっとあるはずなので。

    ———吉永さんだからできるスポーツ事業、楽しみにしています! 最後に現役アスリートの皆さんにメッセージをお願いします。

    野球を引退したことで第二の人生が始まり、そこからいろんなことを考えました。その中で下した転職という決断でしたが、自分のやりたいことや実現したいことを見つめ直すいい機会になりました。結果として新しい生活が手に入り、新たな夢が見つかったので、あのとき下した決断は間違っていなかったと思います。

    スポーツを引退したあと、新しい環境へのチャレンジすることはとても勇気がいることだと思いますが、臆することなく、どんどん飛び込んでほしいですね。野球に限らず、スポーツを通して得た経験は必ず活きますし、あなたの行動を後押ししてくれるはずですから。

    「野球を引退したからこそ、自分にとって大切なことが見つかりました。これからの人生にとてもワクワクしています」と語る吉永。その表情は希望に満ち溢れている[写真]渡邉彰太

    interview & text:八幡和樹/dodaSPORTS編集部
    photo:渡邉彰太

    ※人物の所属および掲載内容は取材当時のものです。

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