「アスリートのキャリアの希望になりたい」 戦力外通告が照らした、新しい道
小松 剛
元プロ野球選手/パーソルキャリア株式会社 リクルーティングアドバイザー
たとえアスリートの道を外れても、これまでの努力は困難を乗り越える力になってくれる。プロ野球選手として5年間、球団職員として8年間を過ごした野球漬けのキャリアから一転、現在は人材紹介営業として働く小松が見つけたのは、そんな事実だった。多くのアスリートの希望になるため、今日も小松は一歩を踏み出す。
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プロ野球・広島東洋カープのピッチャーとして5年間の現役生活を送り、引退後は球団広報、2軍マネジャーとして8年間という野球漬けのキャリアを歩んだ小松。野球との出会いから現在までの道のりを語ってもらった[写真提供]広島東洋カープ
「反骨精神」の塊だった野球人生
———野球を始めたきっかけは何でしたか?
「小松君、背が高いんだから野球やんなよ!」
小学校3年生のある日の夕方、 小学校のグラウンド近くを歩いていたら、ちょうど少年野球をやっていたんです。何とはなしに見ていたら友達のお父さんにそう声をかけられて。それが野球を始めたきっかけです。ルールも知らない自分にできるのかなって、正直戸惑ったのを覚えています。
———それまで野球に触れていなかったのは意外です。野球を始めていかがでしたか?
面白くてすぐにハマりましたね。これまで経験したことのない世界に出会えた嬉しさがありました。自然と「将来はプロ野球選手になりたい!」という気持ちが芽生えましたね。
高知県で過ごした少年時代を振り返り、「少年野球に触れるまで、野球がどういうスポーツかも知りませんでした」と笑いながら答えた[写真]清水真央
———そこからは野球漬けの毎日が始まります。
辛いときはもちろんありましたが、楽しさと夢を追う気持ちが勝りました。特に高校時代は本気で努力しました。室戸高校は甲子園出場経験もない、よくある公立校の一つでしたが、それでも高知高校、高知商業、明徳義塾といった地元の超強豪校を絶対倒すんだって頑張り続けましたね。ところが待っていたのは挫折です。高校最後の夏は登板することなく県2回戦で敗退しました。悔しかったですね。
———その後の大学野球はいかがでしたか?
勧められるまま進学してみれば、周囲は甲子園のスター選手だらけ。ただでさえ不利なのに、肘を故障して3カ月間、戦線を離脱しました。けれど、これで闘志に火が点いたんです。今できることを必死でやろう、誰にも負けないくらい努力しようと強く決心しましたね。
腕が動かせないので、空いている時間はひたすら走りこんで足腰を鍛えました。そして先輩のピッチングを見て、腕の振り方、息遣い、音などを学びました。自分の投球に活かせそうなことはとにかくなんでも吸収してやろうと思っての行動です。
肘を治してピッチングを再開したときは信じられませんでした。141kmだった球速が145kmに上がっていたんです。活躍の機会も増えましたし、本当に嬉しかったですね。
大学野球リーグでは通算42試合に登板。11勝16敗・防御率2.82、195奪三振の結果を残した[写真]本人提供
———小松さんの学生時代は挫折と逆襲の連続ですね。どうしてそこまで頑張れたんですか?
たぶん良い意味で世間知らずの負けず嫌いで、「反骨精神」の塊だったんだと思います。どんなときでも「自分ならできる」と本気で思っていました。例えば小学校6年生のとき、テレビで松坂(大輔)選手が甲子園で活躍する様子を見ても、ただ憧れるのではなく、「松坂選手みたいに投げられるはずだ!」という気持ちが強かったですし、そのためにひたすら頑張ることができましたね。
波乱万丈のプロ野球時代
———その勢いのまま、プロになる夢を叶えます。入団が決まったときの感情はどのようなものでしたか?
入団が決まった瞬間は、それはもう大騒ぎでした。「いつか見返してやる」と内心ライバル視していた友人たちが、クラッカーを鳴らしてプロ野球入りを本気で喜んでくれていて、本当に嬉しかったですね。この光景を見たら、涙が止まりませんでした。
最速149km/hの速球とスライダー、フォークボールを主な持ち球として活躍。1軍として活躍した2年間で30試合に登板し、6勝6敗の結果を残した[写真]本人提供
———当時の嬉しさがこちらまで伝わります。とはいえ、なかなか厳しいプロ野球選手時代でした。
1年目は怖いもの知らずのイケイケドンドンだったので、5勝3敗という新人としては良い結果が残せたと思っています。ただ、2年目にイップスを患ってからは、思うような結果が残せませんでした。最終年にはなんとか復調し、派遣された四国アイランドリーグplusの徳島インディゴソックスでチーム2位の9勝をマーク。後期優勝にもつながるいい結果を残せ、復帰のアピールができたと思ったのですが、残念ながら10月には戦力外通告を受けました。
———戦力外通告は予想していましたか?
正直、ある程度は予想していたのですが、ショックでしたね。「来期の契約はない」という言葉は本当に辛かったです。「回復してきたのに何で」「努力が足りなかったのか」そんな思いが巡り、頭が真っ白になりました。
———それでも、球団職員としての道が提示されます。
これは本当に恵まれていたと思います。まだ自分にできることがある、プロとして迎えてくれたカープに恩を返せる。もう一度頑張ってみようと思えました。
5年間の現役生活に別れを告げ、球団職員として広報、2軍マネジャーを計8年務めた[写真提供]広島東洋カープ
———球団職員時代は広報や2軍マネジャーとして、どのような仕事をされたのですか?
広報の仕事はマスコミ対応がメインです。記者から選手や監督へインタビュー依頼が入った際、内容を精査し、スケジュールや場所の調整をします。そのほか、細かいところだと、選手がホームランを打った際にコメントを拾いに行くこともあります。シーズンオフに行うトークショーなどのイベント調整もあり、とにかく一年中楽しめる仕事でしたね。
2軍マネジャーの仕事は、選手が野球に専念できるように調整することです。遠征の工程を組んだり、チケット、ホテル、荷物の手配をします。中でも大変だったのは、1軍と2軍の選手の入れ替え対応です。前日夜に入れ替えが決まることもあるので、とにかく時間との勝負。急な移動に対応できるよう、1軍マネジャーとやり取りしながら、荷物を手配してスケジュールを調整してといった感じでした。
「遠征中の選手の入れ替えは移動の手配や道具の輸送などとにかく大変」と話した[写真提供]広島東洋カープ
———ご紹介ありがとうございます。どちらも多忙ですね(笑)
正直忙しくて目が回ります(笑)。ですが、選手の気持ちが分かる自分だからこそできる仕事でもあり、やりがいは大きかったですね。
「マスコミの方々と仲良くなったことは思い出深いですね。よくけんかもしましたが(笑)」と、球団職員時代の思い出を語った[写真]清水真央
アスリートの希望になるために
———それだけやりがいのあった球団職員の仕事ですが、一転して人材サービスのパーソルキャリア株式会社へ転職となります。きっかけは何だったのでしょうか?
たしかに球団職員はやりがいも大きいですし、カープには返しきれないほど大きな恩もあります。ただ、歯がゆい思いも経験しました。それは10月、11月の戦力外通告の時期のことです。
昨日まで同じユニホームを着ていた仲間がスーツを着て「お世話になりました」と、別れを告げに来るんですが全員が不安な顔をしています。それに対し私ができることは、握手をして「次も頑張れよ」と声をかけることだけなんです。あんなに頑張ってプロ野球選手になったのに、この先の未来が不安で笑うことができないなんておかしい、何かできることはないのかという思いが強くなっていきました。
———そんな歯がゆさを感じているときに出会ったのが、パーソルキャリア株式会社だったと。
そうです。「SPORT LIGHT(現・dodaSPORTS)」の存在や「アスリートキャリア支援プロジェクト」の立ち上げなどを通して、アスリートのキャリアを本気で考えている企業だと知り、「ここでなら自分にも何かできるかもしれない」と思えたんです。
———とはいえ、野球とはまったく異なる道への挑戦です。不安もあったのでは?
もちろん、不安は大きかったです。それでも、これまでの人生を野球にだけ費やしてきた私がパーソルキャリアで活躍することができたら、カープを去っていった仲間たちの希望になれるかもしれない。世の中の「はたらく」をパーソルキャリアで知ることができれば、自分だからできることが見つかるかもしれない。そう思えたらやる気がわきましたね。
そこからは行動あるのみです。妻からは猛反対にあい半年ほど争いましたが、最後はほぼ強行して応募しました(笑)。
「やりたいことが決まったら迷いはありません。後は行動あるのみでした」と転職活動を回顧する[写真]清水真央
———それだけの熱意を持っての入社だったんですね。パーソルキャリアではどのような仕事をされていますか?
入社してから現在まで、企業の採用支援に携わる人材紹介サービスの法人営業をしています。やりがいはとても大きいですね。特に中四国は人材不足に悩む中小企業が多いので、そこに直接貢献できる意義の大きさを日々実感しています。
ただ、実はいま目標が未達成で、入社以来の壁にぶつかっているんです。
———お! 挫折とくれば、次はまた逆襲ですね。
その通りです(笑)。野球しかやってこなかった人間が、いきなり活躍なんてできるわけがないですからね。それでも、私はプロ野球選手になるまで努力ができた人間なので、絶対に目標を達成できるはずです。必ず結果を残すので、成長を楽しみにしていてください!
———ここでも小松さんの「反骨精神」のようなものを感じられます。これはほかのアスリートの方にも言えることでしょうか?
そうですね。そうした気持ちを持っていることと、これまでの努力を振り返ることでどんな困難も乗り越える方法を知っていること。それがアスリートとして活躍してきた方の共通の強みではないでしょうか。
私は仕事で行き詰ったとき、現役時代に書いていた野球ノートをよく見返すんですが、今の仕事に活かせることが本当に多くて驚きます。ひたすら走りこんだ経験は、お客様理解のための勉強に近いですし、求職者の方に届く求人票を精査することは、強打者に対する球種の組み立てを考えることによく似ています。
壁にぶつかるたびに野球ノートを見返す。「過去の自分が、壁の乗り越え方を教えてくれるんです」と語った[写真]清水真央
こうして置き換えてみると、私たちアスリートは知らず知らずのうちに、仕事で活かせる技術をスポーツを通して学んでいたことが分かります。あとはその事実に気づけるかどうかですよね。アスリートを辞めたからそこで終わりではなく、次のキャリアにどうつなげることができるか、これまでの努力を振り返って棚卸しすることができれば、アスリートはどこに行っても活躍できるはずなんです。
———小松さんだからこそ気づけた事実ですね。多くのアスリートの方に響きそうです。最後に、今後の展望を聞かせてくれますか?
たまたま私はこうした事実に気づくことができましたが、おそらく多くのアスリートが気づくことができず、不安に押しつぶされそうになっていると思います。でもそれは違うんだと、私がパーソルキャリアで活躍することで証明できたら良いなと思っています。そして将来的には、「アスリートが社会で活躍するために」というテーマで、ビジネスとして形にできたら理想です。
「野球漬けの人生があったからこそ、気づけたことがあるんです。それを伝えていきたい」自身の人生を振り返り、そう語る小松の表情は明るい[写真]清水真央
※人物の所属および掲載内容は取材当時のものです。










