柔道金メダリスト谷本歩実の証言「臆せず意見すれば拍手をくれる人がいる」
谷本 歩実さん
柔道家/公益財団法人日本スケート連盟理事/公益財団法人日本オリンピック委員会理事
オリンピック柔道史上初の2大会連続オール一本勝ちという偉業を成し遂げ、世界の柔道史にその名を刻んだ谷本歩実さん。柔道家、医学博士、栄養士、スポーツ団体理事など、さまざまな肩書の背景には、現役引退後の学びと挑戦の足跡があった。そんな柔道界のレジェンドも、ここまで決して順風満帆な道のりではなかったという。畳を離れ2児の母となって見えた景色、そしてこれからの日本のスポーツ界への思いを語ってもらった。
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現役時代は2004年アテネオリンピック、2008年北京オリンピックと、柔道史上初の2大会連続オール一本勝ちでの連覇という偉業を成し遂げた[写真]Getty Images
金メダリストの使命
———谷本さんは2010年に現役を引退されていますが、引退後はどういった進路をとられたのでしょうか。
2008年の北京オリンピック後、右膝の前十字靭帯を断裂するけがをしたんです。その手術後のリハビリに取り組んでいた時期に、スポーツ医学を学ぶために大学院の博士課程に進み、同時期に栄養士の資格を取得するために服部栄養専門学校にも入学しました。
選手としてずっと畳の上にいられるわけではないし、自分の好きな柔道に関わる学びを深めていきたいという思いはずっと持っていたんです。私は人に関わることが好きなので、引退後は指導者の道に進むことを考えていました。
———けがで苦しんでいる中でも、指導者転身を見据えて学びを得ようとされたのですね。
そうですね。でも、けがで苦しんだという思いはなくて、むしろ「勉強する時間がもらえた」という気持ちでした。金メダルを取るための練習は本当に苦しいもので、どのくらい練習すればいいのかは誰も分からない。いわば無限の挑戦です。
涙を流しながら練習する毎日で、けがをするということは自分にとって必要なことを教えてくれるサインなのかなと。今このタイミングでけがをしたということは何か学びを得るチャンスなんだろうと思いました。
「現役時代は24時間365日が柔道で、とにかく時間がなかった」と振り返る。けがで練習ができなくなった当時の心境を「新しい風が吹いた」と表現した[写真]山内優輝
———アテネ、北京と連覇を達成された当時、谷本さんのその後の去就に注目が集まっていたと思います。引退を決断された理由はなんだったのでしょうか。
最終的に「オリンピックを目指す覚悟が持てない」と思ったのが2012年のロンドン大会でした。金メダルを2回取ったことで、どれほど練習をしないといけないか、想像はつくわけです。覚悟を決められず中途半端に続けることはライバルに対しても不誠実だと考え、競技人生に区切りをつけようと。
北京オリンピックで2度目の金メダルを取らせてもらったときに感じたんです。自分はメダルの代わりに何かをやらなきゃいけない人間になったんだなって。その使命のようなものが、引退後の今もずっとモチベーションになっていますね。
20年間の現役生活に幕を下ろし、指導者に転身した谷本さん。2016年リオデジャネイロオリンピックでは女子コーチの立場で選手を支えた[写真]Getty Images
フランスで得た経験と仲間
———指導者としてどのようにスタートされましたか。
コーチをする中でスポーツ医学を学び、海外とのコネクションや知見も必要と考えました。JOCのスポーツ指導者海外研修で2年間フランスに留学し、フランスを拠点にヨーロッパをはじめ世界中でスポーツ事情を学びました。そこで出会った方々とのご縁が広がって、今携わっている各競技団体の活動に繋がりとても助けられています。
———フランス留学ではどんな気づきがありましたか?
海外の選手は柔道だけではなくて、医師免許を持っている方や、弁護士資格を持っている方、中には飛行機の操縦士資格を持っている方など…別の人生の柱になるものを持つ方がたくさんいました。社会的なことに目を向けたり、学びを深めたり、そういった視野の広さにとても刺激を受けました。その中で、現役時代から交流のあったリュシ・デコスと何かいっしょにやりたいねということになり、国際交流イベントを開催しました。
———かつてライバルだったデコス選手ですね。それはどんなイベントですか?
「スポーツ・フォー・トゥモロー」という国際交流・協力プログラムの中で、日仏交流柔道教室を行いました。講師は私とリュシ、パラリンピアンの方などにもお願いして、オリパラ、そして日本の文化を体験するイベントです。日本スポーツ振興センター(JSC)と在フランス日本国大使館を巻き込んで、国籍や障害の有無、すべての垣根を越えたものをつくり上げることができました。
リュシ・デコスさん(写真右下・左側)らとともに2015年にフランスで実施した「日仏交流柔道教室 in Paris」[写真提供]JAPAN SPORT COUNCIL
育児を第一優先に
———帰国後は、どのような活動を?
実業団のコーチを務めながら、全日本ナショナルチームの特別コーチ、全日本ジュニアコーチも務めていました。子どもが生まれ、産後の体で受け身をとり、夜は子どもを寝かしつけて、深夜に資料を作る毎日でした。そんなある日、女性の先輩方に言われました。「あなたがそんなに頑張ると、ほかの女性もできるって思われてしまうよ」って。
———そんなハードな生活はまねできなそうです…その言葉を受けてどう感じましたか。
確かにそのとおりだと思いました。私は柔道が大好きで、柔道界に全力で恩返しがしたいと思っていたのですが、実際のところ体はボロボロでしたし、心の余裕もなくなりかけていました。女性アスリートのロールモデルになるべき自分のせいで、後輩たちがいろいろなものを犠牲にしたり、我慢したりしてしまうのは良くないと考え、コーチから退くことを決めました。まずは子育てに専念しようということで、現在は育児を中心にした生活を送っています。
———柔道から離れてお子さんと過ごす時間はいかがでしたか?
楽しかったですね。ちょうどコロナ禍だったこともあり、自宅でたくさんの時間を過ごせました。こんなにずっといっしょに過ごす時間は初めてでしたが、子育ての楽しさを実感しました。最初はまったくできない状態から一つずつできることが増えていく…成長を見守ることの喜びを感じました。育児を通して、人を支えることに以前よりもやりがいを感じるようになったと思います。
「当時は子育てをしながら指導をしている女性がほとんどいなかったので、以前と同じようにやらなくてはと気負いすぎてしまいました」[写真]山内優輝
手を挙げて意見する勇気
———2020年には日本スケート連盟の理事に就任、ほかにも日本オリンピック委員会や競技団体の理事を複数兼任されていますね。
そうですね。どの立場でもお引き受けしたからには全力で取り組みたいので、自分自身にできることを精いっぱいやらせていただいています。ただ、日本のスポーツ界を支えてきた方々が集まる理事会なんか、試合と同じぐらい緊張しますよ(笑)。錚々たる顔ぶれの中で、「私なんかが発言するのは…」と思ってしまうこともしょっちゅうです。
それでも勇気を出して意見すると、「いい意見だね」「それは今の日本にとって必要だよ」と言ってもらえる。その発言をもとに議論が発展すると、「やっぱりあのとき言ってよかった」と思います。
———金メダリストの谷本さんでも「私なんか」と感じてしまうのですね…意外でした。
実は、日本のスポーツ界は自己肯定感が低い人が多いんです。いざ発言するとすごくいい意見を出す人がたくさんいるにもかかわらず、なかなか自分からは手を挙げない。日本の子どもは諸外国に比べて自己肯定感が低いという内閣府調査結果がありますが、スポーツ界もその傾向が強いと感じます。
スポーツをレクリエーションとして捉える諸外国に比べると、日本のスポーツは競技色が濃く、指導環境によって選手が自分の意見を出す意識が育ちにくい側面があると思います。そうした環境や個人の意識を変えていくためにも、自ら発言していくことを意識しています。
———今後の日本のスポーツ界の発展のために何が必要だと思いますか?
立場や年齢、性差に関係なく、それぞれが気付いたことを発言して、そこから議論になる…かけ算だと思うのです。一人ひとり違う人たちが意見を出しているうちに、次のものが生まれたりするじゃないですか。必要なことは、そういった個人の意識と行動、そして多様性を受け入れる環境ですよね。発展的な意見や行動が増えることによって、日本のスポーツ界もよりよい形に変わっていくのではないかと思います。
Profile
谷本 歩実(たにもと・あゆみ)さん
小学3年生で柔道に出会い、20年間の現役生活を送る。23歳で迎えた2004 年アテネオリンピックでは、オール一本勝ちで金メダルを獲得。連覇のかかる2008年北京オリンピックでは、前年に選手生命が危ぶまれるほどのケガを負うが、再起を果たし五輪史上初となる2大会オール一本勝ちで連覇を成し遂げた。「平成の三四郎」と謳われたバルセロナオリンピック金メダリストの古賀稔彦氏との師弟関係にもなぞらえて「女三四郎」の異名が付いた。引退後は、全日本チームのコーチを歴任。2018 年には国際柔道連盟殿堂入り。現在、日本オリンピック委員会理事。
interview & text:藤岡祐佳/dodaSPORTS編集部
photo:山内優輝
※人物の所属および掲載内容は取材当時のものです。










