井上康生が“改革の先”に見る世界「スポーツにはもっと大きな役割がある」(後編)
井上 康生さん
元柔道日本代表/公益財団法人全日本柔道連盟 強化委員会副委員長
スポーツ業界で活躍する「人」を通じて、“スポーツ業界の今とこれから”を考える対談企画『SPORT LIGHTクロストーク』。ナビゲーターはサッカー元日本代表の加地亮さん。ゲストは前回に続いて、シドニー五輪男子柔道100キロ級金メダリストで、前柔道男子日本代表監督の井上康生さん。前後編2回の後編は、井上さんが日本代表監督として挑戦されてきたことや今後の展望まで、たっぷりと語っていただきました。
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男子日本代表監督として挑んだ2016年のリオ五輪では、金メダル2個を含む全7階級でのメダル獲得、2021年の東京五輪では5階級で金メダル獲得など、在任中の2大会で快挙を成し遂げた[写真]全日本柔道連盟
「柔道」と「JUDO」
加地 2013年に日本代表監督に就任後、ポイントの取り方のところを見直したことも一つだと思いますが、それ以外にどんなことから取り組まれたのでしょうか。
井上 「世界一を目指すなら、世界一の組織を作らなきゃダメだ」と思い、階級ごとの課題としっかり向き合っていくために階級ごとの担当コーチを配置し、フィジカルコーチやコンディショニングコーチなども据えて強化にあたりました。私はその全体に目を行き届かせる役割でしたが、細部の変化というところでは各コーチ、スタッフの役割がものすごく大きかったです。
加地 前体制とは練習内容もかなり変えたんですか?
井上 そうですね。繰り返しになりますが、それまでが悪かったということではなく、柔道界全体が転換期を迎えていた中での取り組みでした。特に当時は、日本柔道界自体が内向的で、「日本の柔道がすべてだ」「海外の柔道は柔道とはいえない」みたいな思考が強くなりすぎてしまっていましたから。
そのころにはすでに柔道界に、漢字で書く「柔道」とアルファベットの「JUDO」という2つの世界ができていたのを受け、われわれが求めるのはあくまで「柔道」だけれども、「JUDO」で起きていることをちゃんと受け止めて対策をしていこう、と。でなければ世界で勝てないどころか、食われてしまうと伝えた上で、柔道界全体に「世界に目を向けよう」と号令を出し、それに応じて練習内容も変えました。
監督就任後は従来の強化方針や指導方法を見直し、科学的データに基づいたトレーニングや映像分析システムの導入など、次々と改革を断行していった[写真]中野賢太
加地 周囲の反応はどうでした?
井上 最初はやることを否定されることも多かったです。「JUDO」への対策として、例えば海外の選手の戦い方や特徴などを分析・研究し、自分たちが対応すべきところだけを切り取った合理的な練習を取り入れたのですが、以前のようにゼーゼー、ハーハーと息を切らすことがなくなっただけで「あんなふうに選手を強化合宿で遊ばせていていいのか」的に言われたこともありました(笑)。
加地 日本の「柔道」としてのプライドもある中で、伝統を変えるのは大変だったんじゃないかとお察しします。ヨーロッパへの留学が活きたところもありましたか?
井上 間違いないです。あとは、東海大学にはずっと連覇を続けている指導者の方がいて、先ほど私がお伝えしたような練習を取り入れたことで成績がグングン良くなっていく姿も見ていたので、これは全日本にも活用できると思い積極的に取り入れました。
というのも、私の指導者としての得意技は「パクリ」なので(笑)。ほかの指導者の方の指導や考え方、言葉、練習方法も含めて、自分がいいなと感じたものはどんどんパクって、それをパズルのように当てはめていったんです。
加地 例えば、どんな言葉をパクりましたか(笑)?
井上 以前、スピードスケート金メダリストの小平奈緒さんが「覚悟」についての話をされていて。「覚悟は人から言われて決めるものでなく、自分自身で“持つ”ものだ」とおっしゃっていたのですが、その話に私もすごく共感し、それ以来、「覚悟を決めろ」から「覚悟を持とう」に変えました。はい、パクりまくっています(笑)。
加地 じゃあ、ぼくも一つ提案します。「怯まず、驕らず、溌剌と」(ひるまず、おごらず、はつらつと)。これは、ぼくの母校である滝川第二高校サッカー部のモットーなので使ってください。
井上 機会があれば、遠慮なく使わせてもらいます(笑)。
加地 でも、パクるだけではきっと選手には、届かないはずですから。きっとそこに康生さんなりのエッセンスを付け足して自分の言葉にしたり、練習に活かしているんだろうなって思います。じゃないと、リオ五輪での52年ぶりの全階級メダル獲得とか、東京五輪での史上最多の金メダルという結果は出なかったはずです。
井上 パズルのように当てはめていると表現しましたが、私は物事というのは常に、いろんなピースを組み合わせて一つの形にすることが重要だと思っているんです。
ですから、例えば今の強化副委員長の仕事にしても、「強化とはなんですか? 一言で言ってください」と言われたら、「一言では言えません」と答えます。なぜなら、いろんな要素を組み合わせて一つのパズルが完成したときにようやく大きな力が生まれると思うからです。
そういう意味では、加地さんがおっしゃってくださったように、その時々で必要なことを取り入れながら一つの形にすることを心がけて選手たちに届けられるように、私なりに努力はしていたつもりです。
さまざまな要素を組み合わせる上で「常に勉強してアンテナを張っておくことが大事」と話した[写真]中野賢太
引退して実感したスポーツの力
加地 結果的に代表監督は9年間務められましたが、継続しようという考えはなかったですか?
井上 全日本柔道連盟の規定で、1期4年の2期までと決まっているんです。私の場合はコロナ禍で東京五輪が1年のびた影響で9年の任期になりましたが、基本は8年なので、私の在任記録がこの先抜かれることはない気がしています(笑)。
加地 またいずれかのタイミングで代表監督をしたいとは思いますか?
井上 絶対にやりません。というのも、私が現場にすがっているようではダメだと思っているんです。そこでしか生きられない、というような思考でいると私自身がきっとダメになってしまう。だからこそこの先は、私自身も次なるステージで、違う環境の中でも生きていけるような能力をつけていきたいと考えています。
それに柔道界全体のことを考えても、新しいエネルギーとなる次世代が活躍していくことが大事で、私たちはそれをちゃんと後押ししていかないと、勝ち続ける集団はつくれないと思っています。
加地 冒頭(前編)にお伺いしたとおり、現在はさまざまな立場でお仕事をされています。ほかにも、昨年(2022年)8月にはウクライナ避難民支援の一環として、ウクライナから一時避難している柔道クラブの子どもたちを対象に柔道教室を開催するなど、柔道を通じた国際交流・青少年の健全育成に向けても精力的に活動されていらっしゃる印象もあります。
ウクライナの柔道クラブの子どもたちを対象とした指導(写真上)や、ポーランド・ウクライナチームに向けた柔道教室の開催(写真下)など、柔道を通じた国際交流や社会貢献活動を精力的に行う[写真提供]NPO法人JUDOs
井上 私自身も選手、監督として世界で戦い、スポーツの魅力、価値を実感してきた一人ですし、加地さんを含めいろんな競技のアスリートの方に失礼な言い方になると申し訳ないのですが……誤解を恐れずにいうなら、スポーツという大枠の中で、競技者であるということは、私は「点」に過ぎないんじゃないかと思っています。実はスポーツというのは、それ以外のさまざまな魅力、価値が集まって成立しているんじゃないかと考えているんです。
勝負の世界では、競技者である選手が活躍することによって多くの感動や夢を与えているのは事実だし、現役時代は私自身もそれを誇りに感じていました。サッカーのワールドカップにしても、今年の野球のワールドベースボールクラシック(WBC)を見ても、それは明らかだと思います。
井上 ただ、選手ではなくなった今の自分が一歩引いた目線で言うと、スポーツにはもっと大きな役割があると思うんです。例えば、人材を育成することも一つですし、スポーツを通して社会に貢献する、社会とつながりを持つこともできると思います。だからこそ、そこに目を向けてスポーツの価値を高めていくための普及活動や柔道のブランディングをしていく活動は今後も続けていきたいと思っています。
加地 そんなふうに選手時代とは違う柔道への関わり方をする中で、ご自身の考える柔道に対する魅力や面白さは変わってきましたか。
井上 今、こうして客観的に競技を見る立場になってもやっぱり、選手たちの活躍ってかっこいいなって思うんです。それはサッカーも、野球も同じで、じゃなきゃ昨年末のワールドカップ・カタール大会のように、みんなが朝の3時、4時に起きて試合を見て興奮するなんてことは起きえない。そこには言葉では言い表せない、すごい力があるなと思います。それを引退して、あらためて実感しているからこそ、もっと多くの人にその感動を届け、応援してもらえる組織にしていきたいという思いはより強くなっています。
井上 実際、アスリートはものすごく体に気を使って食事などに取り組んでいますが、そういうことを一般の方に「健康」という目線で発信していくこともできるかもしれないし、スポーツは人間が生きていく上で大切な要素、人を強くする要素をたくさん秘めているだけに人生の参考になることもきっとある。
それ以外にも、「世界」と簡単につながりを持つとか、人と人がつながれることもスポーツの魅力だと思います。そういうことを子どもたちがより具体的に感じ取れる環境を提供していきたいと考えています。
「スポーツは感動や夢を与えるだけでなく、人材育成、健康、国際交流など社会貢献に活かせる力がある」と話した[写真]中野賢太
柔道の“楽しさ”を伝える挑戦
加地 柔道の普及のために今、一番力を入れているのはどんなことですか?
井上 全日本柔道連盟としても、国際柔道連盟としてもそうですが、デジタルの強化、推進は積極的に取り組んでいますし、メディアを使った発信も積極的に行っています。例えば、ロンドン五輪を前に、国際柔道連盟がワールドツアーをスタートさせたのもその一つで、今、世界では必ず金曜~日曜に柔道の試合が行われていて、それをメディアやSNSを使って発信を続けています。
井上 あと、これはワールドカップやWBCを見ていても感じたことですが、やはりスポーツを生で見る興奮って計り知れないじゃないですか? なので、柔道も少しずつ新たな取り組みをしようと、昨年も「グランドスラム東京」という国際大会で、少し華やかな演出というか、ライティングや音響、装飾をして「魅せる」工夫も始めました。
マネタイズのところも、これまで今後の運営に回していけるような仕組みがつくれておらず、世界大会でもチケットを2,000円とか3,000円で売っていたんです。
加地 サッカーのワールドカップに比べてもめちゃめちゃ格安ですね!
井上 そうなんです。なので、グランドスラム東京ではチケットもレベル分けして値段を変えて開催するといった取り組みも始めました。おかげさまでチケットの売れ行きもよく、開催2日間は両日完売しましたし、われわれもまだまだやれることがあるなと自信も持てたので、これからまたいろんな取り組みを行っていこうと思っています。
「グランドスラム東京2022」では最新技術を駆使した音響・映像効果、場内解説サービス、360度視点の映像コンテンツや体験ブース設置など、「柔道の新しい観戦体験」を形にした[写真]全日本柔道連盟
加地 ぼくは柔道を生で観戦したことがないのですが、きっと生で見たほうが迫力があるでしょうね!
井上 そうなんです。そんなふうに、実際に足を運んでもらって柔道を楽しんでいただくことも魅力を伝える方法の一つだと思っていますし、試合にイベントなどを絡ませてより楽しみを膨らませるような仕掛けもしていきたいです。
また、実際に柔道をやってもらって体感してもらうのも大事だと思っています。日本の中学校では柔道を含む武道が必修になっていますが、そういう時間を通して「柔道=痛い、寒い」ではなく、もっと楽しいものなんだということを伝えていきたい。とにかく、やりたいこと、やらなければいけないことがまだまだたくさんあります。
加地 康生さんは現役時代から次のキャリアを見据えて「why」と「if」を考えて過ごしてきたと話されていました(前編)。あらためて、現役選手に向けて「現役のうちにこんな取り組みをしておいたらいいよ」「こんな考え方ができたら役に立つよ」というメッセージをいただけるとうれしいです。
井上 一つは、自分自身に限界をつくってもらいたくないと思っています。常に自分はやれる、できるという思考、自己肯定力を持っていてもらいたい。それを持つことによって自分で動き出せる力がついてくるし、結果的にできなかったとしても、その過程が間違いなく次なるステージに向けた大きなエネルギーに変わっていくと思うからです。
実際、これからの世の中を生きていくには、外発的要素に影響を受けるばかりではなく、自分自身がどうしたいかを考えて、行動することがすごく大事だと思うんです。WBCでの大谷翔平くんもその能力がすごく高いと感じました。
加地 確かに、常に自分で考えて行動しているのが伝わってきます。
井上 ですよね。なので、まずはその自己肯定力を持つことを大事にしてもらいたいです。あとは、現役時代って意外と時間もあるじゃないですか? その時間の一部でいいので、次のセカンドキャリアを意識した上で語学や経営学を学んでみるとか、違うスポーツについて学ぶとか、そういう時間に充てることで変えていけることもたくさんあるんじゃないかと思います。
プロアスリートなら高額な収入をどう有効活用していくのかを考えるだけでもいい。さっきも言ったようにそれを考えることが、また動き出せるエネルギーに変わっていくはずなので、失敗を恐れず、どんどんいろんなことにチャレンジしてもらいたいと思います。
加地 ちなみに康生さん自身に夢はありますか?
井上 これだけいろいろと仕事の話をしていて何ですが、早くいろんなことをやり切ってゆっくりしたいです(笑)。
もちろんその前に、もっと世の中に柔道の素晴らしさを伝えたいし、柔道をする人も、見る人も、支える人もすべて含めて「柔道っていいね」と言ってくださる人が増えるように努力をしたいと思います。
加地 応援しています。今日は本当にありがとうございました!
井上さんのキャリアを通じて「スポーツが持つ価値」について熱く語られた対談は、笑顔で幕を閉じた[写真]中野賢太
interview & text:高村美砂
photo:中野賢太
※人物の所属および掲載内容は取材当時のものです。










