「準備しておくことに無駄はない」柔道家・井上康生を導いた“学び”の力(前編)
井上 康生さん
元柔道日本代表/公益財団法人全日本柔道連盟 強化委員会副委員長
スポーツ業界で活躍する「人」を通じて、“スポーツ業界の今とこれから”を考える対談企画『SPORT LIGHTクロストーク』。サッカー元日本代表・加地亮さんがナビゲーターとなる今回のゲストは、シドニー五輪男子柔道100キロ級金メダリストで、前柔道男子日本代表監督の井上康生さん。前後編2回の前編では、井上さんの現役時代から指導者の道に進んだ経緯や、そこに秘められた思いを聞きました。
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現役時代は世界選手権100キロ級で3連覇を果たし、シドニー五輪では金メダルを獲得。2008年に現役を引退し、2年間の英国留学を経て全日本強化コーチ、全日本男子監督を歴任した[写真提供]全日本柔道連盟
競技と学びの両立
加地 お会いできて光栄です。今日はよろしくお願いします。康生さんといえば、2000年のシドニー五輪! テレビで見ていました。当時ぼくはちょうどプロ2年目でしたが、康生さんの金メダルにかなりパワーをいただきました!
井上 私が大学4年のときなので、もう20年以上も前ですね……。ここまであっという間でした。
加地 康生さんの大内刈りからの、内股で一本を取るみたいな技が大好きでした。
シドニー五輪では5試合連続一本勝ちという圧倒的な強さで世界の頂点に立った井上さん。写真は得意技の内股で相手を投げる瞬間[写真提供]全日本柔道連盟
井上 ありがとうございます。それが得意技だったので覚えていただいていてうれしいです。最近は柔道教室で子どもたちに指導することもあるんですけど、子どもたちはぜんぜん、私のことを知らないんですよ。今の時代はYouTubeがあるので知ってくれている子もいますけど、それがなければ「誰だ、この人?」って感じだと思います(笑)。
でも親御さんに私と同世代の方が増えてきたからか、子どもに私と同じ名前をつけてくれている方もいたりして……。「こうせい!」って呼ばれてドキッとして振り向いたら息子さんのことだった、なんてこともあり、それはすごくうれしいです。
加地 2021年の東京五輪後、日本代表監督を退任されました。現在はどんなお仕事をされているんですか?
井上 現在は、全日本柔道連盟で強化委員会副委員長とブランディング戦略推進特別委員会の委員長を務めています。簡単に言うと、強化に関わる仕事をしながら、柔道の魅力、価値を世の中に発信していくための取り組みをしています。それ以外では、日本オリンピック委員会(JOC)でも仕事をしていますし、ジャパンエレベーターサービスホールディングス株式会社に新設された柔道部のゼネラルマネージャーや、東海大学の教員もさせていただいています。
2021年に男子日本代表監督を退任後、全日本柔道連盟で柔道のブランド価値向上を目的として新設された「ブランディング戦略推進特別委員会」の最高責任者を務めている[写真]中野賢太
加地 教員というのは、授業で教えるということですか?
井上 そうです。私の出身校でもある東海大学体育学部は5学科に分かれているのですが、創立者である松前重義氏が柔道家で、過去には国際柔道連盟の会長も務められたくらい柔道への愛が深い方だったことから、その1つに武道学科があるんです。そこで実技を教えたり、授業を行ったりしています。
加地 いろんな仕事を兼任されていますが、選手時代から今のような道に進むことを描いていらっしゃったんですか?
井上 細かいところまでイメージしていたわけではなかったですが、子どものころの夢として、オリンピックでの金メダルとは別にもう一つ、漠然と「柔道に携わる仕事をしたい」という思いは持っていました。その中でいろんな恩師と出会い、経験を積みながら具体的に指導者の道を考え始めたのは大学生のときです。卒業後に大学院の博士課程まで進んだのも、引退後の指導者を見据えた取り組みで、大学時代の先生が道しるべとなって私を導いてくださいました。
加地 選手以外の道も考えておいたほうがいい、と。
井上 そうですね。将来、オリンピックチャンピオンとして活躍した井上康生だけではなく、一人の井上康生として活躍するためにも学びの力をつけなきゃダメだ、勉強しなきゃダメだと教えていただきました。私に大学院をはじめとするさまざまな経験を積ませてくれるような指導と環境を与えてくださったことは、今の自分にもすごく役に立っています。
加地 ぼくはプロサッカー選手としてサッカーだけに専念することができましたが、柔道界にプロはなく、康生さんも現役時代は綜合警備保障のALSOK(アルソック)柔道部に籍を置かれていました。それは仕事をしながら柔道をされていたということですか?
20年間にわたるプロ生活を送り、2017年に現役を引退した加地さん。サッカー界と柔道界の競技活動の違いに注目した[写真]中野賢太
井上 いえ、私の場合はALSOKの契約社員だったので、ある種、プロ契約のようなものだったんです。ALSOKのゼッケンをつけて試合をするのがメインの仕事で、空き時間は自由に、自分でコントロールできました。ALSOKのイベントなどに参加することはありましたが、基本的に現役中に会社で仕事をすることはなかったです。
なので、その時間を使って大学院で修士課程、博士課程を修了しました。中には所属企業の正社員になる選手もいますが、会社で仕事をしているケースはほぼなく、現役中は競技に専念していることがほとんどです。
加地 その流れで、引退後にはそのまま所属企業で働く方もいる、と。
井上 そうですね。昨今のアマチュアスポーツ界も、ある種プロ化されているような環境になりつつありますが、それでもアマチュア的要素はあるので、どうしてもセカンドキャリアを意識して活動することになるんです。もちろん、加地さんも日本代表としてワールドカップも経験されているのでよくご存じだと思いますが、アスリートが世界で戦うには相当な覚悟がなければ突き抜けられません。なので「現役を引退しても、この道があるよね」というように、将来に対する保険のようなものがあると腹をくくって競技に向き合えないというネガティブ要素もあるのですが、そうはいっても次のステージでも活躍できる環境を整えておかないと生きていけなくなってしまうのも現実であり……。だからこそ現役中に次のキャリアの準備をする選手もいますし、私自身も、人生を長いスパンで考えればそれはすごく大事だと感じています。
「why」と「if」を常に考えていた
加地 実際のところ、現役中からセカンドキャリアの準備をする難しさは感じませんでしたか?
井上 確かに、時間的なことも含めて大変さはありました。ただ、私は大学時代の恩師から常に「why(なぜ)」と「if(もし)」を考えて準備をしておくといいよ、と教えられていましたから。例えば、「将来、もし自分に監督のオファーがあったら」というのもその一つですが、そのときに備えて勉強することや、準備しておくことに無駄はない、と。実際、私自身も、柔道以外は何もしていない、という過ごし方をしていると、次のステージに進んだときに苦労するだろうなと想像できたので頑張れたところもあります。
加地 セカンドキャリアに向けた準備が、選手としての自分の邪魔になることもなかったですか?
井上 実は、大学院に通っている間は私自身も東海大学の柔道部で練習をしていたこともあり、大学のコーチを兼任することになったんです。でも、そうするとアスリートとしての自分を高めることがおろそかになってしまうというか。恩師からそこは気をつけろと言われていたので私も留意していたつもりでしたが、指導を始めると、どうしても自分の柔道より「この選手を育てたい」という気持ちが強くなってしまう。そのことに気づいてからは、選手としていっしょに高めていくことには問題ないけど、指導にどっぷりハマったらダメだと思い、いろいろと見直したりもしました。それ以外の難しさでいうと……大学院で論文を書かなければいけないことが一番大変でした(笑)。
井上さんは指導者の道に進む前に東海大学大学院へ進学し、競技と学びを両立してきた[写真]中野賢太
加地 ちなみに、論文は何について書かれたんですか?
井上 言葉ですね。擬音語、擬態語を総称して「オノマトペ」というのですが、これってもともとフランスから来た言葉なんです。その擬音語、擬態語がスポーツの指導現場において、競技力向上や指導に役に立つんじゃないかという仮説をもとに論文を書きました。簡単に言うと、サッカーでも「チョンと蹴れ」と伝えるのと「バ~ンと蹴れ」と伝えるのとで、イメージする強さ、スピード感は変わってきますよね? もちろんそれだけで指導は成り立たないですが、そういうものをうまく活用していけば、いろんな効果があるんじゃないか、というような内容です。
加地 話を聞くぶんには面白そうですけど、いざそれを論文としてまとめるとなると大変そうですね!
井上 はい、本当に大変でした(笑)。
加地 2008年に現役を引退されてから、2012年に日本代表監督に就任されるまでの間はどんなことをされていたんですか?
井上 引退後もALSOKとの契約は8カ月ほど続いたので、実はその間には会社に行って仕事もした時期もありました。でも、そのときにはすでに2010年からJOCの海外研修プログラムを活用して海外留学に行くことも、帰国後に東海大学の教員になることも決まっていました。
加地 なぜ海外で学ぼうと思ったんですか?
井上 国ごとに文化も、良さも違いますし、逆に海外で学ぶことで日本の良さを感じ取れるんじゃないかという考えもありました。
加地 どちらに行かれたんですか?
井上 スコットランドに1年、ロンドンに1年です。ヨーロッパの強豪国はフランスやオランダですが、私は語学を学ぶために英語圏の国に行きたかったので、スコットランドを選びました。またスコットランドに東海大学と昔からつながりのあるヨーロッパ柔道連盟の副会長兼イギリス柔道連盟の名誉会長をされている方がいて……その方のもとで、ヨーロッパでのいろんな人脈、つながりをつくりながらさまざまな経験を積みたかったのもあります。なので、スコットランドで1年を過ごし、ロンドン五輪を控えていた2011年はオリンピックの準備を手伝うためにロンドンに移り住みました。
現役引退後の英国への2年間の留学には、ヨーロッパの近代的な柔道への理解を深めながら世界の柔道関係者との人脈づくりを行う目的もあったという[写真]中野賢太
加地 実際、ヨーロッパに行かれたからこそ感じられた刺激もありましたか?
井上 ヨーロッパの人たちはすごく理論的な指導を行うんです。日本のスポーツ界であれば、先生や師匠が見本を見せて「じゃあ、みんなでやってみましょう!」という感じでとりあえずやらせて体に染み込ませるという指導が多いですが、海外は一つひとつの動きを細かくていねいに説明し、理論立てて柔道を教えていく。その過程では指導者と選手が「なぜ、そうしたほうがいいのか」というようなやりとりも頻繁に行います。もちろん「とりあえずやってみる」というのも決して悪いことだとは思いませんが、幼少期から常に物事を理論的に考える癖というか、思考を植え付けられることで、自律性や主体性が育まれている部分も大いにあるんじゃないかということは感じました。
加地 確かに日本のスポーツ界は、監督から選手への一方通行で指導が行われることが多い気がします。
井上 そうですよね。実は私が感じたことは、柔道界に限らず今後、日本のスポーツ界がより発展していくためにも必要な要素なんじゃないかと思っています。
日本柔道界の混乱期
加地 2012年のロンドン五輪を経て、2013年に日本代表監督に就任されました。ロンドン五輪は柔道界にとって違う意味でインパクトのある結果だったのではないかと思います。
井上 そうですね。1964年の東京五輪で柔道がオリンピック競技として採用されてから、初めて金メダルがゼロで終わった大会になってしまいました。実は、ちょうどあの時期は世界の柔道界が大きく変革したタイミングでもあったんです。その最たるものが、2009年に国際柔道連盟が設けた「世界ランキング制」です。
ロンドン五輪に出場するには世界のいろんな大会を転戦して、ポイントを稼ぎ、その合計が世界ランキングで24位以内(当時)に入っておかなければいけなくなった。それを受けてわれわれも毎年行われるすべての世界大会に勝たなければいけないというような戦い方をしてしまい、いざ五輪を迎えたときには選手が疲れ果ててしまっていたんです。これはわれわれ全日本柔道連盟としての戦略ミスであり、敗戦の理由にもなったと思っています。実際、その経験をもとにロンドン以降はポイントの取り方もかなり見直しました。
加地 そのロンドン五輪で監督を務められた篠原信一さんから代表監督を受け継ぐことになったときはすぐに「やります」と決断できたんですか?
井上 当時はまだ34歳でしたからね。過去にはすごい方たちが代表監督を歴任されてきたことを考えても、「経験のない私で大丈夫か?」というのが最初に思ったことでした。
加地 ちなみに、そういうときは奥様には相談するんですか?
井上 もちろんです。ただあっさり「え? 何か断る理由あるの?」って言われて、「軽いな!」と。自分がこんなに悩んでいるのに、そんなあっさり答えを出すか?と思ったことを覚えています(笑)。
日本代表監督就任のオファーがあった当時、妻・東原亜希さんに相談したエピソードを披露[写真]中野賢太
加地 うちもそうです。決断が早いですよね。
井上 そうなんですよ。だから「そんな簡単な世界じゃないんだ」と返したら、「そんなことは分かっているわよ。じゃあ、あなたがやらなければ誰がやるの? せっかく皆さんがそう言ってくださっているのなら全力でやればいい。家庭のことはちゃんと私がやるから!」と。そのへんは私より断然、肝が据わっているので彼女らしいな、と思いましたね。おかげで私自身も、最後は自分自身と向き合って「腹をくくってやろう」と覚悟を持てました。相談した恩師の皆さんが総じて「頑張れ」と背中を押してくださったのも心強かったです。
加地 就任に際してはどんな監督になろうとか、イメージみたいなものはありましたか?
井上 正直、自分自身がこういう指導者になるんだ、みたいな発想はなかったです。それよりも具体的に、今チームとして必要なものは何なのかにフォーカスしてやろうという感じでした。就任当時は、ロンドン五輪での結果があって、それぞれが不安や恐怖を感じているように見えたし、「これから日本の柔道はどうなっていくんだ」というように柔道界全体が混乱の中にいたような雰囲気もありましたから。
まずは最初に私自身が「こういう方向でいこう」というものを明確に定める必要を感じたので、目標はあくまで全員で、次のリオ五輪で金メダルを取りにいくことだと掲げた上で、そこから逆算して何をしていくのかを明確にすることに注力しました。
interview & text:高村美砂
photo:中野賢太
※人物の所属および掲載内容は取材当時のものです。










