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七転八起の元オリンピアン「この経験をスポーツ界のために」

山田 優梨菜

パーソルキャリア株式会社 スポーツビジネス推進グループ/元スキージャンプ選手

幼少期からスキージャンプの才能を開花させ、17歳で立ったオリンピックという世界最高峰の舞台。アスリートとしての輝かしい未来が見えた直後、競技人生への悲劇的な別れが訪れる。「人生そのものだった」という競技を失ってもなお、山田優梨菜はスポーツ界のために再起した。次代のアスリートのため、そして、スポーツに夢を見るすべての人たちのために。

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    10代から女子スキージャンプ日本代表として活躍し、2014年ソチ・オリンピックにも出場。スポーツとの出会いから現在までの道のりを語ってもらった[写真]本人提供

    17歳のオリンピック

    ———まずは、スキージャンプを始めたきっかけを教えてください。

    私は、長野県小谷(おたり)村という人口2,500人ぐらいの小さな村の出身なのですが、小谷村は日本有数の豪雪地帯で、雪もスキーも日常の一部。小学校の必須授業で、クロスカントリースキー、アルペンスキー、スキージャンプがあるんです。その中でもスキージャンプが一番楽しくて、小学1年生のときに「ジャンプがやりたい!」と何度も親にお願いしたんです。

    ———小学校でスキージャンプの授業があるのですね。そこからすぐに競技を始めたのですか?

    スキーの中でもジャンプは少し特殊で、特に小さい子はあまり選ばない種目なんです。けがのリスクも大きいし、父も母も猛反対でした。結局、私が勝手にスキークラブへの入団届に印鑑を押して両親のところに持っていったらさすがにあきれたのか(笑)、許してくれて3年生から始めました。

    幼少期は運動が得意で「とにかくわんぱくだった」と語る。「両親はスポーツをやっていなかったので私は突然変異みたいな存在でした」と笑った[写真]清水真央

    ———なぜそこまでスキージャンプに夢中になったのですか?

    ジャンプ台から飛ぶと、本当に鳥になったような気分になるんです。宙に浮いている感じというか、その感覚がとにかく楽しくて。ジャンプは高いところの恐怖心が伴うスポーツですが、私の場合は楽しい気持ちのほうが上回っていました。保育園のころから水泳や剣道、トライアスロンなどスポーツはたくさん習わせてもらっていたのですが、その中でもジャンプは特別でしたね。得意かどうかというより、純粋に「楽しい」から始まった感じです。

    ———小学生のころから日本代表として国際大会にも出場していますが、選手として意識が変わったのはいつごろからでしょうか。

    小学4年生のころから長野県代表として全国大会に出て優勝もしていたんですが、そのころは成績はあまり気にしていなくて、「楽しいからもっと強くなりたい」という感覚でした。6年生で初めて全日本選手として国際大会に出場するようになり、ナショナルチームのメンバーとして意識が変わっていきました。日の丸を背負う重みもありましたし、当時は女子のジャンプがまだメジャーな競技ではなかったので、スポンサーさんや応援してくれる方への感謝や期待に応えたいという気持ちでした。

    小学6年生時の札幌での大会で。この年代では男女混合の全国大会でも毎回優勝するほど「無敵状態」だったという[写真]本人提供

    ———その後、2014年ソチ・オリンピックから女子スキージャンプが正式種目に加わりました。オリンピック出場も目標になったのでは。

    そうですね。中学2年のころからジュニア世界選手権やワールドカップを回るようになり、そのころからオリンピック出場が大きな夢になっていきました。でも、高校1年生でのワールドカップ転戦中に、内側側副靭帯断裂のけがをしてしまったんです。ソチ・オリンピックまで1年を切って選考が迫っている中で、絶望的な状況でした。 一時期はあきらめかけましたが、たくさんの方にサポートしていただいたおかげで無事復帰することができ、選考前の国際大会で初めて表彰台に乗ることができました。結果、ギリギリで基準をクリアしてオリンピック代表に選ばれることができました。

    2013年9月、サマーグランプリ・アルマトイ大会で3位入賞。2013-2014シーズン以降の総合成績で日本選手3番目となり、オリンピック代表に初選出された[写真]本人提供

    ———17歳で念願の出場を果たしたソチ・オリンピック本大会。振り返っていかがですか。

    結果は30選手中30位と惨敗で、本当に申し訳なく思いました。ほかにも出場を目指して努力している方々がたくさんいる中、ふがいなさで苦しかったです。今思えば、出場することがゴールになってしまっていたのかなという気がします。コンディション調整も失敗して、普段のジャンプがまったく出せなかった。よく「オリンピックには魔物がいる」と言われますが、ほかの大会とはまったく違う雰囲気にのまれて、生まれて初めて「スタートを切るのが怖い」と思いました。

    女子スキージャンプが自分たちの世代で注目され始めて、私たちの成績や行いが次の世代の子どもたちや今頑張っている選手たちの道にもつながると考えると、いろんなところで責任やプレッシャーを感じていたこともあったと思います。だけど、そういった経験も含めて、あの大舞台に立てたことは自分の人生にとって大きな財産になったと思っています。

    2014年ソチ・オリンピックで女子ノーマルヒル個人に出場。決勝では30選手中30位に終わるも「ビリだったけど4年後はトップになれるよう成長するので見ていてください」とコメントした[写真]Getty Images/Ryan Pierse

    失意の引退

    ———オリンピック出場後、どのような変化がありましたか。

    ソチ・オリンピック後の2014-15シーズンはまたワールドカップを転戦し、ジュニア世界選手権でも金メダルを取って、順調に進んでいました。オリンピックで世界最高峰の戦いを経験したことで課題も見えましたが、成長できた実感もありました。
    その後、高校卒業後の進路を決めるタイミングで、名門チームを持つ企業数社からオファーもいただきました。プロとして競技に専念する道と、大学に進んで学業と競技を並行する道で迷いましたが、今後の長い人生を考えたときに学びたいこともたくさんあったので、早稲田大学への進学を選びました。

    オリンピック後、2014年ジュニア世界選手権団体戦で金メダルを獲得するなど着実に成長。2015年4月、早稲田大学スポーツ科学部に進学し、スキー部で活動する道を選んだ[写真]本人提供

    ———その後、現役引退を余儀なくされる大きなできごとがありました。経緯を教えてもらえますか。

    きっかけは高校3年の世界選手権前で、転倒したときに膝に違和感を覚えたんです。そこから大学進学後も調子が戻らず、成績も落ちる一方。飛び出すと空中で膝の関節が外れるような感覚があったんですが、病院に行っても「問題ない」と言われていたので、無理して飛び続けていました。その後、別の病院を受診したところ、膝の半月板が断裂していたことが分かりました。2018 年の平昌オリンピックの選考が迫っていたので、早く治して復帰するために、手術に踏み切りました。それが大学1年の冬です。

    その手術の過程で、注射針から菌が体に入ってしまい感染症を引き起こしてしまったんです。当初は意識不明になり、本当にいつ死んでもおかしくない状態だったそうです。その後再発もあり計4、5回手術を行ったのですが、後遺症もあって、4カ月間寝たきりになりました。そこからまずは寝返りを打つところからリハビリを重ねて、なんとか歩けるようにはなったものの、膝には後遺症が残ってしまいました。「次に感染症が再発すれば命の危険もある」と言われ、最後までもがきましたが、復帰はあきらめるしかありませんでした。

    半月板手術の過程で感染症を発症し、闘病生活を送った当時の様子[写真]本人提供

    ———競技者としてこれからという時期で、ショックは大きかったと思います。

    はい。もう本当にどん底でした。現実を受け止めることができず、病室で叫んだこともありました。自分にとって人生そのものだったスキージャンプが突然消え去って、「今の自分の存在価値はどこにあるんだろう」と本気で思いました。退院後も車いすのままで、大学で順調に成績を出している仲間を直視できなくなって、引きこもりになってしまった時期もありました。薬を飲まないと眠れないし、部屋のドアノブも怖くて触れないような状態でした。

    そこから半年ぐらいして、また違う病気が見つかり、入退院を繰り返す生活が続きました。それらのストレスのせいで難聴になってしまったり……今でも思い出したくない記憶です。でも、大学はストレートで卒業したかったので、外泊の形で授業は受けていて、大学3年の秋ごろには歩けるようになり、少しずつ日常生活に戻っていきました。

    ———そこから、どのように進路をとったのでしょうか。

    競技の道が閉ざされて、「これからの人生をどうしよう」と。前に進もうと就活を始めてみても、思い描いていた人生とのギャップが大きすぎて、なかなか働くことに前向きになれなかった。どうしてそういう気持ちになるのかを考えたときに、自分自身が現実を受け入れられず、気持ちを切り替えられていないことに気づいたんです。そういう心の現象やキャリアの問題をもっと理解して学んでいきたいと思い、大学院に進学することにしました。卒業後は順天堂大学大学院に進み、在学中はアスリートのキャリアトランジションについての研究をしていました。

    ———アスリートのキャリアを研究する中で、どんなことが見えてきましたか。

    自分自身が経験者だからなおさら理解できたことですが、国内のアスリートのキャリアの大きな問題が見えました。日本は欧州など海外と比較しても、アスリートのキャリアを支援する環境や体制はまだこれからの状態です。そこに問題意識が芽生えて、アスリートを取り巻く現状を変えていきたいという思いが生まれました。もう、私みたいにつらい経験をしてほしくないし、そういう人を生み出したくない。そう思ったんです。

    大学院でアスリートのキャリアを学ぶ中で「自分の経験をスポーツ界のために役立てたいと考えるようになった」と話した[写真]清水真央

    「宿命と向き合いたい」

    ———大学院修了後、パーソルキャリアに入社しましたが、就職先にパーソルを選んだ理由は。

    アスリートを含めた多くの方々のキャリアを支援するためにも、人材業界に進むべきだと考えました。そして、自分がこの先何を実現したいのかを考えたときに、「人が持つ価値を活かす社会」だと気づいたんです。そういった自分のビジョンにマッチしていて、人を大切にしている会社だと感じたのがパーソルでした。さらに、スポーツビジネスに関連する事業もしていて、自分もそこに関わりたいと。そういった思いで面接を受け、入社に至りました。

    ———入社から現在まで、どんな仕事をしているのでしょうか。

    1年目は、個人のお客さまに対して転職・キャリアサポートを行うキャリアアドバイザーとして仕事をしていました。2年目から現在の「スポーツビジネス推進グループ」へ異動になり、スポーツ関連企業・団体の採用支援や、アスリートのセカンドキャリア支援、スポーツ庁から受託しているスポーツ団体における女性役員の育成・マッチング事業など、スポーツと人材に関連するさまざまな業務を行っています。

    「お客さまの転職が成功したとき、本当にうれしかった」とキャリアアドバイザー時代を回顧。「自分は人に寄り添うことが本当に好きなんだと思った」と話した[写真]清水真央

    ———競技の世界で生きるアスリートから、スポーツ業界を支える立場に転身して思うことは。

    まずは、競技やアスリートのサポートを行う方々の苦労が身にしみて理解できたことですね。そしてやはり、アスリートやスポーツ業界で働く方々が自分のキャリアをつくっていくことや、その受け皿となる雇用の課題を解決していきたいという思いが強くなりました。

    私は、スポーツが産業として持続的に発展していくために、「スポーツでお金を稼ぐこと」を肯定することが大事だと考えています。そのためにもスポーツが持つ力や社会価値をビジネスとして形にしていくことが必要だと思いますし、自分がそこに貢献していきたいと思っています。

    ———あらためて、あなたにとっての「スポーツ」とは?

    「家」ですね。自分にとっての家だからこそ、恩を返せるよう一度外に出て、いろんなことを吸収してまた戻っていく、という感じですかね。正直なところ、競技人生が終わってからずっとスポーツをまともに見られなくて。特にスキージャンプは……競技に近づくほど体が拒否反応を示してしまって、苦しい時期が長かったです。それでもやっぱりこのスポーツの世界には戻ってきて、支えていきたいと思っている。大げさにいえば、「宿命と向き合いたい」という気持ちです。

    ———最後に、今後の展望を聞かせてください。

    日本におけるアスリートのキャリアトランジションは、学問としても社会制度としてもこれからの分野だと思っているので、アスリートのキャリア支援の環境をより良くすることに貢献していきたいと思っています。そして、個人のキャリア形成は教育とも密接につながっているので、学童期や青年期のキャリア教育についても、もっと勉強していきたいと思っています。やりたいことだらけですが(笑)、一歩ずつ頑張っていきたいと思います。

    競技者としてピリオドを打ったスポーツの世界に、新たな目標を見いだした山田。決意を語るその表情は明るい[写真]清水真央

    interview & text:芦澤直孝/dodaSPORTS編集部
    photo:清水真央

    ※人物の所属および掲載内容は取材当時のものです。

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