弱さも、挫折も、スポーツを変える力になる。
益子 直美さん
元バレーボール女子日本代表選手/公益社団法人日本バレーボール協会 理事/一般社団法人監督が怒ってはいけない大会 代表理事
《棺桶にはバレーボール用品を絶対に入れないで》。自身の“エンディングノート”にそう書き記したのは、かつて日本中を沸かせた女子バレーのスター選手だった——
2021年、バレーボール協会理事に就任した元日本代表選手・益子直美さん。実は現役引退から長い間、バレーボール界とは距離を置き続けてきた。逃げるように踏み出したセカンドキャリア。過去のトラウマや病気との闘い。そして、再びバレーを愛せるまで。
自らの弱さを受け入れ、自然体で歩み続ける彼女の活動が、いまスポーツ界に静かな変化を起こしはじめている。
Index
高校3年で日本代表に抜擢。1990年には「イトーヨーカドー」のエースとして強豪「日立」を破り、日本一に。「下町のマコちゃん」の愛称で親しまれ、日本女子バレーボール界を牽引した[写真]中野賢太
目標は「現役引退」
———1992年に現役を引退されていますが、その後は具体的なキャリアプランがあったのですか?
いいえ、空っぽでした(笑)。高校3年生で日本代表に選ばれて、そのころは高校卒業したら実業団に入るのがあたりまえ。敷かれたレールにただ従うだけで、自分で何かを選択する機会なんてなかったんです。社会人になって自主性を求められると、戸惑ってしまって。そのころ、私の中にあったのは、とにかく早くバレーを辞めたいっていう一心だけ。だから、日本リーグ優勝という目標を入団5年目で果たした直後に、監督に「辞めます!」と伝えて。
———いわば引退することが目標だったのですね。
結局、7年目に引退の許しが出ました。でも、本当は辞めるのも、すごく怖かったんです。バレー以外何もしてこなかった自分が社会で通用するのか。選択肢を書き出してみても、地元・葛飾のスポーツセンターで働くか、所属するイトーヨーカドーに社員として残るか……。実際、引退した先輩たちの多くも地元のお店で制服着て働いていましたから。いずれにしても仕事をゼロから覚えなければいけない。迷いに迷って、結局沖縄でスキューバダイビングのインストラクターになろうと思って……。
———ダイビング!? それはまた大胆な路線変更ですね。
現役時代、たまに1日休みができると逃げるように沖縄に行っていたんですよ。海に潜って、嫌なこと全部忘れて、リフレッシュして帰るみたいな。監督から「辞めてどうする?」って聞かれて、「南の島でインストラクターやります!」って答えたら、「よし、行ってこい」と。でもね、結局1週間くらいで飽きるんですよ(笑)。きつい生活の中にいたから、美化していただけで。
———現実は甘くなかった(笑)。その後、芸能界での活動をはじめます。
1年間はアシスタントコーチとしてチームに残ることになったんですが、同時に会社から「リポーターの仕事があるからやって来い」と。バルセロナオリンピック(1992年)の直前リポートを任されました。そこではじめてバレー以外の競技に触れて、衝撃を受けたんです。練習環境もトレーニング方法も価値観も、バレーボールとはまるで違う。今まで外の世界が閉ざされていたから、急に新しい扉が開いた感じがして。「こういうことを現役のときに知っていれば、もっと人間力のある選手に成長できたんじゃないか」。そこから、どんどん新しい世界に出ていくようになって。
———キャスターをはじめ、バラエティ、映画、歌手にも挑戦しました。
バレーボールしかやってこなかったので、自分に何が向いていて、何が向いていないのかまったく分からなかった。だから、食わず嫌いせずに一度はやってみようって。「映画出ませんか?」「出ます!」「CD出しませんか?」「出します!」(笑)。ほかにもいろいろやったなあ。犬の着ぐるみでフリスビードッグしたり、自衛隊の訓練で宙づりになったり(笑)。
1994年にデビューシングル『VICTORY~戦う勇者たちへ~』で歌手デビュー。恥ずかしいけれどいい思い出と笑う。「いい曲なんですよ。私じゃなかったら、もっと売れてたのに(笑)」[写真]中野賢太
ショックだった「マコちゃん、忘れたの?」
———活躍の幅を広げる一方で、バレーボールからは遠ざかっていったのですか?
はい。やっぱりトラウマがあったので。「ボールも見たくない」とまで思っていました。もちろん仕事をしないと食べられないので、解説とかリポーターの仕事は受けるんですけど、そのたびに具合が悪くなってしまって。
———よほどストレスを感じていたのですね。
主人は、ヨーロッパで活動してきたロードレーサーなんですが、スポーツへの向き合い方が私とは正反対なんです。彼は引退しても競技が大好きで、家にトロフィーとかたくさん飾ってる。私はユニホームもバレーボールも押し入れから出すことすらできなくて。エンディングノートをつけていたんですが、そこにも「棺桶にバレーボール用品は絶対に入れないで」って書いたくらい(笑)。
———墓場まで徹底して遮断した(笑)。しかし、そんななかで2015年に「監督が怒ってはいけない大会」をスタートさせます。
これは長年の親友の一言がきっかけだったんです。「わたし、バレーが嫌いだから」とこぼしたときに「マコちゃん、何言ってるの? ずっとバレーと関わってきたじゃん」って指摘されて。シッティングバレーのボランティアでは海外を飛び回っていたし、LGBT向けのバレー大会も10年主催してきたのに「忘れたの?」と。ショックでした。まったく自覚がなかったから。「そうか、私、バレーボールは好きだったんだ。ただ“勝利至上主義”に関わりたくなかっただけなんだ」って。
———その気づきが「怒ってはいけない」のコンセプトにつながったのですね。
ちょうどLGBT向けのバレー大会に10年の区切りがついたタイミングで、小学生向け大会を開催してほしいと依頼されていたんです。「子どもたちに心からバレーを楽しんでもらうにはどうしたらいいか」。思いついたのが「監督が怒らない」というルールでした。でも、方針を決めたのが大会前日(笑)。当日集まった50チームにも、その場でルールを発表して。
———指導者の方々にとっては不意打ちだったでしょうね(笑)。
2年目は誰も来ないだろうと思いきや、もっと人が集まった。聞けば、子どもたちから「楽しかった!」というリクエストが多かったそうです。でも、ネガティブな声もたくさん届きましたよ。「お前だって怒鳴られて育ってきただろ!」って。私も「やっぱり怒られちゃった……」と怖くなって、長い間大っぴらな発信はしませんでした。
2015年に福岡ではじまった「監督が怒ってはいけない大会」。2022年からは全国各地で開催されており、大会の様子がメディアに取り上げられることも多い[写真]本人提供
メンタルは弱くたっていい。病に倒れて学んだこと。
———ほぼ同じ時期に淑徳大学の監督として、コートにも復帰しています。
「現場なんて私には絶対無理です」って、ずっとお断りしてたんですよ。ただ、当時のGMから「勝たせたい、強くしたい、じゃない。いろんな挫折を経験している益子さんに選手の人間性を磨くような指導をしてほしいんだ」と熱弁されて。当時父の介護など金銭的な事情もあったので、「それなら」とお受けしたんです。
———チームの育成は理想どおりに進んだのでしょうか。
関東6リーグからどんどん勝ち上がって、3部まではいけたんです。私の知識だけで、そこまでは伸ばせた。ところが、その先が難しかった。何か新しく学んでいかないといけない。でも、変なプライドがあるんですよ。もう50歳だからとか。元全日本が誰かに教えを乞うなんてとか。じゃあ自分に残っている“成功体験”って何かといったら、 “怒る指導”しかなかった。
———「怒ってはいけない大会」を開催する当の本人が、怒っていた。
最初の2年は本当にブレブレでしたね。やっぱり怒ると短期間で結果が出てくるんですよ。それははじめから分かってた。でも、あんなに嫌だったことを自分がやってしまっている。自分もメンタルが崩れてしまったし、何より選手たちの思考が止まっちゃった。今まで考えて動いていた子たちが、私のほうしか見ていない。現役時代の自分そのものでした。それから、練習にも行けなくなるくらい精神的に追い込まれて。体調もどんどん悪くなり、そのうち本当に心臓発作で倒れてしまったんです。本当は大好きだったはずのバレーボールが、いつしか大嫌いになって、ついには病気を引き起こすまでになってしまった。いったいなんなんだ、と。
———そんなつらい状態からどのように立ち直ったのですか。
主人の存在が大きいですね。彼が私に問いかけるんです。「なんで日本ではわざわざ『怒ってはいけない』ルールをつくらなきゃいけないの?」「なぜ相手チームをたたえたり、感謝したりせずに、ヤジを飛ばすの?」。私からしたら「それ普通じゃない?」って思うんだけど、ヨーロッパのスポーツ文化に慣れ親しんだ彼には理解できない。そうやって議論を深めるうちに、「古い価値観で凝り固まった私から解き放たれたい!」と思うようになったんです。そこから、スポーツについてきちんと学びなおそうと。
———なるほど。具体的にはどんなことから勉強したのですか?
最初に学んだのはスポーツメンタルコーチングです。それから、アンガーマネジメントの資格を取ったり、選手を励ますペップトークのテクニックを学びにいったり。選手時代に褒められたことがないので、誰かを褒めるのもすごく難しくて。“ほめる達人検定”というのも受けましたね(笑)。
———“学び直し”の過程で、ご自身の中に変化はありましたか?
メンタルへの向き合い方ですね。昔は、ミスしてもメンタルで解決しろと教えられてきました。「切り替えろ」「気合入れろ」って。そう言われても、どうやって切り替えたらいいのか分からなかった。でも、どんなミスにも原因があるんです。それを具体化して、言語化して、とことん掘り下げていくことで、どんどん問題が解決していった。そうか、メンタルは強い弱いじゃない。弱くてもいい。どう整えるかが大事なんだって。それが、私なりにたどり着いた答えでした。50歳からはじめた勉強だったけど、遅くはなかったのかなって思えました。
2006年、プロの自転車ロードレーサーとしてヨーロッパで活躍する山本雅道さんと結婚。現在は神奈川・湘南で自然に囲まれた暮らしを送る[写真]本人提供 ©テレビ朝日
日本のスポーツ界は、もっと変われる。
———2021年には「怒ってはいけない大会」が社団法人化されました。
スポーツを学びなおす中で、「怒ってはいけない」というコンセプトに対する自分の軸も揺るぎないものになっていきました。9年目に入ってSNSでの発信も堂々とできるようになって。最近では福岡県と山口県でリーグ戦も立ち上げました。これがもう大好評。ゆくゆくは10カ所ぐらいでリーグを作れたらいいなと。サッカーやラグビーなど、ほかのスポーツとのコラボもはじまっています。
———2021年にバレーボール協会の理事に就任されたのも、これまでの活動が認められての推薦と伺っています。
もともと協会の「体罰・暴力・ハラスメント撲滅対策委員会」に参画していたことがきっかけで、お声かけをいただきました。これまで大きな組織に属したこともないし、私に務まるのかと驚きましたが、この問題に本気で取り組もうという協会の覚悟もあって、推薦していただいのだと思っています。
———普段は理事としてどんな活動を行っていますか?
主には理事会の会議に参加して、さまざまな案件や課題を解決しています。優秀な専門家ばかりだから恐縮してしまうけれど、現場を知っているからこそお役に立てることがあると思い、自分なりに意見を出しています。川合俊一会長をはじめ、みなさんオープンなので、声を上げやすいですよ。それから、今年は春高バレーの代表者会議に呼んでいただき、全国強豪校の監督やキャプテンの前でスピーチしました。
———どのようなお話をしたのですか?
さすがに試合前日なので「怒っちゃだめですよ!」みたいな話はしませんでした(笑)。自分の経験談を通じて「メンタルが弱くてもいいんだよ」「悩んでいる選手もきっといるから、認めてあげてね。そうしたら強くなれるかもよ」って。そんなことを伝えました。短い時間だったけど、私が一番思いを届けたかった場所に、少し近づけた気がしましたね。特に今大会で優勝した駿台学園の監督が「益子さんのおっしゃるとおりです!」と共感してくださって、とても勇気づけられました。こうやって現場で話をさせてもらったり、選手と触れ合ったりということが、自分が理事として一番やるべきなのかなと思っています。今後も、ほかの理事の方々と連携しながら役目を果たしていきたいです。
———挫折を経て、バレー界に戻られた益子さんが考える「スポーツ業界で働く意義」とはなんでしょうか?
日本のスポーツ業界って、まだまだやるべきことがたくさんあると思うんです。欧米のライフワーク的なスポーツの価値観には、まだほど遠い。ただ、日本には日本のいいところがあります。たとえば、部活動の文化はイタリア人の友達に「こんなにレベルの高いことを学校で教えているの!」と驚かれます。そういう良い点を伸ばしつつ、弱点を改善していくためには、やはり新しい価値観やアイデアが必要だと思うんです。その意味で、スポーツ業界は可能性にあふれた、チャレンジしやすい場所なのではないでしょうか。私も、今こんなことしているなんて、現役時代には想像もしていなかった。行動してみてよかったなって思います。
時代が多様化している今だからこそ、若い人や女性に対してもスポーツ業界が開かれた場になってほしいと語る。「あなたのパワーを必要としていますよ!」[写真]中野賢太
interview & text:大迫龍平/dodaSPORTS編集部
photo:中野賢太
※人物の所属および掲載内容は取材当時のものです。










