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アメフト選手になったアナウンサー有馬隼人、“不屈”の奮闘録

ゲスト:有馬 隼人さん × ナビゲーター:播戸 竜二さん

フリーアナウンサー/元アメリカンフットボール選手/アサヒビールシルバースター ヘッドコーチ

スポーツ業界で活躍する「人」を通じて、“スポーツ業界の今とこれから”を考える対談企画『SPORT LIGHTクロストーク』。サッカー元日本代表・播戸竜二さんがナビゲーターとなる今回のゲストは、元TBSアナウンサーで、元アメリカンフットボール選手の有馬隼人さん。

現在はフリーアナウンサーとして多方面で活躍する傍ら、Xリーグ・アサヒビールシルバースターのヘッドコーチとしても活動されています。TBSアナウンサーからアメリカンフットボール選手へ転向した理由、そして今後の展望まで、播戸さんがその異色のキャリアの内側に迫ります。

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    現在、フリーアナウンサー、アメリカンフットボール実況・解説者、Xリーグ・アサヒビールシルバースターのヘッドコーチなど、ビジネスとスポーツを横断したキャリアを歩む有馬さん[写真]本人提供

    日本一を目指した大学時代

    播戸 お忙しいところ、今日はありがとうございます。アメリカンフットボールのことはそこまで詳しくないので、いろいろ教えてください。

    有馬 こちらこそよろしくお願いします。

    播戸 まずは有馬さんのスポーツ歴と、アメフトとの出会いを教えていただけますか?

    有馬 小学校のときは少年野球、中学はバスケットボールをやっていました。アメフトと出会ったのは府立箕面高校のとき。大阪北部のエリアはどこもアメフト部があって、特殊な環境だったんです。そこから本格的にスタートしました。
    1990年代の関西学生リーグはものすごい集客力があって、ガンバ大阪の古い本拠地である万博記念競技場が満員になるほどでした。Jリーグ発足前の日本リーグ(サッカー)は松下電器対ヤンマー戦の観客数が数百人という状況でしたから、学生アメフトの集客力はすごかった。テレビの地上波放送もありましたし、高校の試合でもときどき、生中継があったほどですからね。

    播戸 大阪北部にアメフトが根付いているのは、何かバックボーンがあるんですか?

    有馬 アメフト自体の歴史は長く、80年を超えると聞いています。関東では日本大学が最強軍団をつくりましたし、関西では関学(関西学院大)がライバルとなって、70~80年代にはしのぎを削ったといいます。そこに京都大学が割り込み、さらには立命館も参入してきた。そう流れもあって、関西で人気スポーツになっていったのかと思います。

    有馬さんは広島県福山市出身。9歳のときに大阪府豊中市へ転居し、大阪府立箕面高校在学中にアメリカンフットボールに出会った[写真]中野賢太

     

    播戸 なるほど。確かにガンバ大阪のクラブハウスの近くにもラグビー・アメフト場がありますね。ぼくは選手時代に「なんでここにあるんやろな」と気になってました(笑)。しかも盛り上がっていたから。

    有馬 そうなんです。そんな中で、自分が高校3年のとき、公立校にもかかわらず奇跡的に全国トップ4まで行くという出来事があったんです。それで強豪大学から声がかかるという意外なことまで起きた。卒業後は関学へ進学して、そのままアメフトを続けることになりました。

    播戸 大学卒業後は社会人になるというコースが普通ですか? プロはなかったんですか?

    有馬 実は、日本にはまだアメリカンフットボールのプロチームはないんです。バスケのBリーグが発足し、ラグビーもリーグワンができたところですけど、アメフトはいまだに社会人リーグの位置づけ。たまにプロ契約の選手が出てくる感じです。

    播戸 となると、卒業後も競技を継続しようと思ったときに、どういう選択肢があるんですか?

    有馬 大きく分けて2つあって、1つ目は競技を続けて実業団チームに入社する形です。今は富士通とパナソニックが実業団ですから、そこに就職して選手としてプレーするという社会人野球のような形です。もう1つはアメフトとまったく関係のない就職をして、社会人として働きながらクラブチームでプレーする形。ただ、アメフトの体づくりやチームづくりは時間がかかるので、仕事との両立は難しい。自分もそう考えたので、アメフトは大学で終わりにして、就職しようと思ったんです。

    有馬さんは大学時代クォーターバックとして活躍し、大学4年時には関西学生リーグ年間最優秀選手に選ばれた。第53回ライスボウル出場を果たし日本一に挑むも、社会人チームのアサヒビールシルバースターに惜敗した[写真]本人提供

     

    播戸 その決断はいつ?

    有馬 ぼくの場合は4年のときですね。大学時代は日本一になれるかどうかを日々、考え続けて取り組んだので、疲れちゃったんですよ(苦笑)。練習がつらいとかはなかったけど、勝つためにチーム内でミーティングしたり、練習方法や運営を変えたりといろいろ試していて、日本一になったころはもうヘロヘロ。それで就職を決意する人が多いんです。

    播戸 なるほど。一般的なアメフト経験者の就職事情はどうなんですか?

    有馬 大企業に採用されるケースは多い印象ですね。社会人になってから感じたことですけど、一流と呼ばれる企業グループで集まったりすると、ラグビー・アメフト出身の学生はゴロゴロ出てくる。対照的になぜか野球・サッカーは競技人口に比べるとあまり出てこないですね。

    播戸 そうなんですよね。アメフトはチームビルディングを多く取り入れているイメージですが、それに対してサッカーでいうと、技術や感覚の要素が強いスポーツだからですかね。ちなみにアメフトは、監督が中心になってチームをつくるんですか?

    有馬 以前はその傾向が強かったですけど、今は選手の自主性が重視されています。例えば、ぼくのいた関学なんかは250~260人の選手がいて、そこから必要な人材が戦力になっていく。ベンチ入りの選手が80~90人だとすると、分析スタッフが40人くらいなんですよ。上から映像を撮って、それを逐一、プレーに活かしていく。自分が学生のころは練習場にビデオカメラが10台くらいあって、グラウンドで起きたすべてのことが記録されるようになっていました。デッキも50台くらいはあり、次々と編集して選手に手渡して、各自が確認したうえで練習をしていた。さすがに監督1人では回せないんで、自主的にやらないとムリだったんです。

    播戸 それはすごい。自主性もそうですし、分析も一人ひとりがやるわけじゃないですか。その経験がビジネスに活きてくるんでしょうね。

    有馬 そうですね。組織が大きくなればなるほど、一人ひとりが役割を明確に把握して、確実に貢献していく必要がある。アメフト経験者はそういうことが得意だと思うんです。採用する側もそこを見るのかなという気がします。

    播戸 サッカーは常にプレーが止まらず試合が流れていくんで、ビデオを見せて「これをこうして」と言ってもできる選手とできない選手の差が出る。スポーツの特性がありますね。

    サッカーは「感覚の要素が強いスポーツ」と話す播戸さん。セットプレーが主体となるアメリカンフットボールとの特性の違いを語った[写真]中野賢太

     

    有馬 でも、ゼロから1を生み出す「ゼロイチ人材」はいるんじゃないですか。アメフトの場合は、よーいどん、でボールが動き始めたときにどうなるかはみんな分かるんですよ。一瞬のうちにその情報を処理して、みんなが決めた方針に沿って動き出すスポーツなんで、よりビジネスに近いというか。

    播戸 確かにそうですね。記憶力と理解力、実行力がないと試合に出られない。

    有馬 それと状況判断力ですね。仲間が正しく動けるために自分も正しく動くというのが大前提。細かく全員の動きやルールをつくっていくスポーツなんです。

    TBSに入社、アナウンサーへ

    播戸 少し話を戻しますが、有馬さんは大学でアメフトをやめようと決めた。卒業後はどんなキャリアを歩もうとしたんですか?

    有馬 当時はスポーツに携わる仕事を考えていました。メディアとして盛り上げるのもあるし、チームやリーグなどの運営組織、イベント会社などいろんな選択肢があった。その中でメディアに入って楽しく見せる仕事は、間接的にスポーツを盛り上げられると思ったので選択しました。

    播戸 そこでTBSにアナウンサーとして入社し、スポーツを伝えようと。

    有馬 はい。ラジオもあったので野球中継もやりましたし、ゴルフや相撲、ボクシング、バレーボール、バスケなどあらゆる現場に取材に行きました。一方でバラエティに出たり、ニュースを読んだりする仕事もあった。自分の言葉一つで伝わり方が変わったり、楽しめるようになるんだなと思いながら、やりがいを感じていましたね。

    TBSアナウンサー時代は『ブロードキャスター』『J-SPORTS』など人気番組のキャスターとして活躍した[写真]本人提供

     

    播戸 有馬さんがTBSに入社したのが2001年4月。その後2004年に同社を退社し、アサヒビールシルバースターにアメリカンフットボール選手として入団されています。アナウンサーとして順調に仕事をされていた中で、なぜもう一度選手になろうと思ったんですか?

    有馬 一つの理由になったんだろうなと思うのは、自分の後輩が2002年にライスボウルで社会人チームを倒して日本一になったこと。さらに翌年からライバルだった立命館が社会人を2年連続で倒したんです。それを見て「自分はプレーヤーとしてやり残したことがあったんじゃないか」って気持ちになった。もうちょっと頑張れるんじゃないかって気持ちに火がついたんです。
    もう一つは肉体的なこと。現場に戻るのなら25、26歳ぐらいまでじゃないと難しいだろうと感じた。今のうちにリスタートすれば、日本のトップレベルまで行けるという計算もありました。

    播戸 なるほど。

    有馬 TBSアナとして取材している中で、バイトをしながら、体を酷使して40歳までソフトボールを続けている女子選手がいたり、いろんな人と出会うわけですよ。1つの競技をやり切っている人の姿を見て、ぼくがやり切ったか自分に問いかけるとそうじゃなかった。それらの要素が複合的に重なって、TBSを退社してプレーヤーとして頑張る方向に舵を切ったんです。

    播戸 とはいえ、大きな決断だと思います。誰かに相談はされました?

    有馬 あまり相談しなかったんです。社会人リーグに参加するだけなら、平日のお昼の仕事にしてもらえば、クラブチームの練習には参加できるんです。それを人事からも言われたりしたんですけど、ぼくはワガママを聞いてもらっている社員の立場は嫌だった。働き方が多様化した今ならデュアルキャリアとして認められた可能性が高いですけど、当時は自分だけ特別扱いされることは会社にとってもよくないと。それでスパッと辞めてしまう決断をしました。その後の仕事がどうなるかっていう計算はまったくしないままでしたね。

    播戸 周囲の方からの理解も得られていたんですか?

    有馬 母親なんかは心配していましたね。でも父親は意外と「そういうことを言い出すとは思ったけどな」と(苦笑)。父親は40年間1つの会社で勤め上げた人ですけど、やっぱり途中でほかの会社に行きたいと思ったことがあったようなんです。「俺はできなかったから」というようなことは言っていました。もし父親がダメだと言ったらTBSに残っていたと思います。

    アナウンサーとして充実した日々を過ごすも、アメリカンフットボールへの情熱を捨てきれず、安定した職を捨て選手転向を決断。「もう一度、頂点を目指したいと思った」と当時を振り返った[写真]中野賢太

    選手としての再出発

    播戸 TBSを退社されてから、仕事はどうされていたんですか?

    有馬 最初は貯金でやっていけるだろうと思ったので、アサヒビールの選手として練習に集中してレベルを上げることに努めていました。働かない時期もありましたけど、徐々にスポーツチャンネルなどでアメフト中継の実況・解説を始めて、野球の番組とか陸上競技、テニス、バスケなどの実況も務めるようになりました。夕方練習して、帰って仮眠して、WOWOWなどで夜から朝にかけてしゃべって、その後トレーニングに行く、といったこともやってましたね。

    播戸 それ以外の仕事に関しては?

    有馬 メディア以外だと、会社に入ってイベント事業や旅行代理業、事業企画なども経験しました。2010年ごろからはスポーツマネジメントの会社でオリンピック選手のサポートもしました。最初は業務委託だったんですけど、途中から中に入って、最終的には管理職になりましたね。当時は50人くらいの部署のトップで、漫画家との企画を出版社に持っていくとか、映画にできそうな版権を映画の制作会社や配給会社に持っていくような仕事もしていました。映画の製作委員会の仕切りもやったり、セカンドキャリア支援も手がけましたよ。

    播戸 いろんなことをやったんですね。アメフトのほうは、社会人リーグで選手として再スタートされた後は?

    2004年にアサヒビールシルバースターに入団。2008年にアサヒ飲料チャレンジャーズに移籍し、2シーズンプレーした後、2010年にアサヒビールシルバースターに復帰。2012年シーズンをもって現役を引退した[写真]本人提供

     

    有馬 社会人チームで日本一を目指して学生チームを迎え撃つところまでいくつもりでやりましたが、それはかなわなかったですね。あとは海外に行ってアメリカの選手と対戦したり、アメリカ人選手のチームに入ってプレーするという経験もしました。

    播戸 アメリカといえばNFLですが、向こうでプレーする可能性はあったんですか?

    有馬 そこはレベルが高すぎてね。ぼくごときのサイズや能力で行けるところではないというのは分かっていました。実際、自分より30キロも体重が重い人が同じスピードで走ってくるんですから、その瞬間に「これは終わったな」と(苦笑)。

    播戸 吹っ飛ばされますよね。日本人選手がNFLで活躍するのはまだ難しいですか。

    有馬 大谷翔平選手がアメフトをやっていればNFLに届いているんじゃないかと思っていますが、まず日本国内の土壌がそこまで成熟していないですね。今の学生は高校からアメリカへ渡ったり、大学から現地へ行ってNFLにチャレンジするケースも増えてきましたが。

    播戸 サラリーはハンパないですもんね。

    有馬 NFLのベンチに入れれば、最低年俸でも66万ドル(約9,800万円)ぐらいですからね。

    播戸 トップにいけば数十億円とかじゃないですか。さすがにそこまでではなくとも、日本でアメフトのプロリーグをつくることはできないですか。

    有馬 日本のリーグのプロ化はかなり難しいですね。社会人リーグの選手数上限は65人なんですが、スタッフを入れると100人もの組織になります。バスケはスタメンが5人でスタッフを入れて25~30人の組織ですよね。それでも1チームで最低でも年間数億円のコストがかかりますから、100人規模だと現実的ではないですね。
    ただ、競技でいえば、日本でもXリーグのレベルはいいところまできているんです。みんな仕事をしながらデュアルキャリアでプレーしていますが、それでも日本代表を組めばアメリカ以外には負けないぐらいになっている。日本のアメフトの競技レベルは着実に上がっていると思っています。

    Xリーグは企業の社員のみで構成される実業団と、多種多様な職業の選手が集まるクラブチームの2種類があるが、選手は原則アマチュア。プロ化の難しさを痛感するも「競技レベルは着実に上がっている」と太鼓判[写真]中野賢太

    アメフト界のキャリアパス

    播戸 有馬さんは、何歳まで選手としてプレーされていたんですか?

    有馬 2012年に引退したので、34歳ですかね。けがも多いスポーツなので、だいたい30歳を越えるあたりでみんな身の振り方を考えますね。

    播戸 現役を引退して、チーム(アサヒビールシルバースター)のコーチに転向されたんですね。

    有馬 はい。すぐにコーチになり、ゲーム分析や戦術の落とし込み、練習などチームづくりをしていく作業に携わるようになりました。今はヘッドコーチなので、全体のマネジメントもしなきゃいけない。チームの編成を決めたり、役割を与えて組織を形成していく責任者なので、そこは大変。ただ、肉体的には追い込んでいないので、選手のころとは違いますね。

    現役を引退し、2013年シーズンからチームのオフェンスコーディネーターに転身。2017年からはヘッドコーチとして指揮を執っている[写真]本人提供

     

    播戸 選手は仕事と競技活動を両立させていると思いますが、有馬さん自身がデュアルキャリアを実践していた立場として、選手からキャリアについて相談を受けることはありませんか?

    有馬 あります。個別に話さなきゃいけないことは多いですね。うちのチームでいえば、選手が70人余りいて、20代前半から40代まで年齢層も幅広い。そこで助け合うんです。キャリアで悩んでいたら、「○○会社の人に会ってみろ」とかね(笑)。出身大学も40~50校、働いている会社も50~60社ありますから、もう大人脈。転職エージェントなどにコンタクトする前に、リアルにつながりますね。

    播戸 人材会社みたい(笑)。先ほど大企業にアメフト出身者が多いという話がありましたが、アメフトとビジネスで活躍することの共通点はありますか?

    有馬 アメフトは“たまたま”があまり起きないスポーツ。計画的にやることを決めて、アプローチ方法やタイミングを理解し合ったうえでやっていかないといけない。それって、会社組織も同じなんですよ。プロジェクトの中で役割を分担して、いつまでにこうするといった分担をしていくのはよく似ているかなと思います。

    播戸 確かに。そんなアメフト界が今後、どうなればいいという思いはありますか?

    有馬 現状はプロスポーツとしての完全なる商業化が難しいので、デュアルキャリアを羽ばたかせられるリーグにしないといけないですね。チームにいることや競技をすることで、仕事だけでは得られない経験が必ずありますから。人間を磨くことができるし、アメフトと仕事を両立させることによってより良い人材がここで育まれますよね。
    プラス、より充実した運営をしないといけない。そのためにはお金が必要で、見る方にとってエンターテインメント性の高い、よりカッコよく魅力的な見せ方が求められる。そして、そう仕向けられるような強い人材がいないとダメだと思いますね。

    「デュアルキャリアを活かして人材を育むリーグにすること」「アメリカンフットボールをメジャー化していくこと」が重要だと話した[写真]中野賢太

     

    播戸 競技全体をリードするのは協会になるんですか?

    有馬 日本協会(日本アメリカンフットボール協会)はあるんですが、東西に分かれた社会人協会(日本社会人アメリカンフットボール協会)、ブロックごとに分かれた学生連盟もある。これがなかなか難しいんです。日本協会がまとめないといけないんですけど。

    播戸 そこがまとまらないとサポートする側も混乱しますね。

    有馬 そうなんです。今は富士通、パナソニックなど名だたる企業が実業団チームを運営してくれているので、すごくありがたいこと。そういう企業がいる間にリーグを整備して、ウィン・ウィンの関係をつくることが大事。川淵(三郎)さんを呼んでこないといけないですね。

    播戸 もう85歳ですからね。でもやっぱり組織上の課題だったとしても、われわれの世代がやらないといけないですよ。

    有馬 そうですね。1人でパッと世界を変えられる偉大な人が80歳を超えているので、そういう人材を育てないといけない。バブル崩壊以降の日本経済は「失われた30年」といわれますけど、社会の構成要素が停滞していたんだろうなと。だからこそ、川淵さんの後30年空くんですよね。スポーツ界もそうで、ぼくら40代以下が新たな時代をつくらないといけない。本当にそう思います。

    播戸 1人ですべてやるのは難しいけど、横でつながりながら変えていければいいですよね。まずはアメフトをもっと理解するために、次はぜひ生で1回試合を見に行きます。

    有馬 川崎(富士通スタジアム川崎)に来てくれたら、ぜひ始球式をお願いします(笑)。

    播戸 楽しみにしています(笑)。今日はありがとうございました!

    「安定よりも挑戦」を選ぶ有馬さんのキャリアに触れ、「刺激をもらえた」と播戸さん。国内アメフト界の未来のために挑戦は続く[写真]中野賢太

    text:元川悦子
    photo:中野賢太

    ※人物の所属および掲載内容は取材当時のものです。

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