「目標はワールドカップベスト8常連国」 JFA田嶋幸三会長が見る日本サッカーの未来
ゲスト:田嶋 幸三さん × ナビゲーター:加地 亮さん
公益財団法人日本サッカー協会会長
スポーツ業界で活躍する「人」を通じて、“スポーツ業界の今とこれから”を考える対談企画『SPORT LIGHTクロストーク』。サッカー元日本代表・加地亮さんがナビゲーターとなる今回のゲストは、日本サッカー協会会長の田嶋幸三さん。元日本代表選手でもある田嶋さんに、現役時代の話から会長就任までの話、日本代表にまつわる話、そして日本サッカーの未来の話まで、加地さんと熱く語っていただきました。(取材協力=CAZI CAFE)
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今回の対談は、加地さんが夫妻で経営する『CAZI CAFE(カジカフェ)』で行われた[写真]清水真央
ドイツ留学で見た世界との差
田嶋 久しぶりに会えてうれしいよ。元気だった?
加地 元気です! 田嶋さんは……白髪が増えましたね(笑)。というか、「田嶋さん」って呼ぶのが、なんかちょっと変な感じです。2006年FIFAワールドカップ ドイツ大会のころは選手の誰もが「コマちゃん」って呼んでいましたから(笑)。
田嶋 駒野(友一)に似ているってよく選手にイジられていたからね(笑)。
加地 愛されていましたね(笑)。今日はそんな田嶋さんを丸裸にしたいと思います! まず最初に、現役時代の話を少し聞かせてください。田嶋さんってどんな選手だったんですか?
田嶋 ストライカーだった。浦和南高校時代はキャプテンとして全国高校サッカー選手権大会で優勝したし、筑波大学でも1年のときから試合に出ていたよ。
加地 確か、筑波大在学中に日本代表に選ばれたんですよね?
田嶋 大学4年生のときに選んでもらったね。それもあって社会人チームから声がかかり、古河電工でプレーすることになったんだけど、もし日本代表に選ばれていなかったら、卒業後は高校の体育の先生になっていたと思う。
田嶋さんは現役時代、日本サッカーリーグ1部・古河電工(現ジェフユナイテッド千葉)で3シーズンプレー。日本代表では7試合に出場し1得点を記録した[写真]清水真央
加地 古河電工を選んだ決め手はなんだったんですか?
田嶋 当時、元古河の奥寺康彦さんが1.FCケルンでプレーしていた流れもあり、古河のスカウトの方が「うちに来てくれたらドイツに留学できる」って約束してくれたから(笑)。実際、古河に加入した1980年の7~8月の2カ月間、1.FCケルンに短期留学させてもらったしね。そのときに、素晴らしい天然芝のグラウンドや、森の中にあるクラブハウスに心をつかまれたことや、ドイツでの2カ月で「自分にはプロは無理だ」と自覚したこともあり「自分もできるだけ早くここに学びにきて、将来は指導者になろう」と腹が決まった。
加地 そのドイツ留学が、指導者を志すきっかけになったわけですね。
田嶋 そのころのドイツって、それこそフランツ・ベッケンバウアーやゲルト・ミュラーを擁した西ドイツ代表が1974年の母国開催のワールドカップでも優勝してすごく強かったし、指導者養成にも力を入れていたからね。森の中をジョギングしていたときに、「速く走るな。このくらいの心拍数を保って走れ」と言われて衝撃を受けたのを覚えてるよ。それまでのサッカー人生で速く走るな、なんて言われたことがなかったから(笑)。
加地 その時代にドイツはすでにそういうコンディションのつくり方に取り組んでいたとなると、あらためて日本との差を感じます。
加地さんは現役時代、日本代表として2006年FIFAワールドカップ ドイツ大会にも出場。国際Aマッチ通算64試合に出場し、世界のトップレベルとの距離を体感してきた[写真]清水真央
田嶋 そうだよね。だから自分も早くドイツに行って勉強しなきゃいけないと思って25歳で引退を決めた。それで、すぐにドイツに渡って1983年から1986年まで筑波大の大学院に籍を置きながら、ケルン体育大学に約2年半留学し、日本サッカー界に縁深いデットマール・クラマーさんが監督をしていたバイエル・レバークーゼンで指導者の勉強をさせてもらった。ドイツにいる間は、午前、午後とつきっきりでプロチームの練習を見て、夜はアマチュアチームでプレーするという毎日だったよ。最後の1年間は12歳以下の子どもの指導もしていたしね。
加地 帰国後はまた筑波大に戻られていますよね?
田嶋 まだ大学院を卒業していなかったからね。それで筑波大に戻ってサッカー部のコーチをし、卒業後は、立教大学に勤めてサッカー部のコーチになった。当時、立教大は東京都3部リーグのチームで、日本代表時代にお世話になった渡辺正さんが監督を務められていてね。恩返しのつもりでコーチを引き受け、東京都1部まで昇格できたんだけど、自分自身はもう一度、ドイツできちんと指導者の勉強をしたいと思っていたから。それで、1991-1992シーズンにJOC(日本オリンピック委員会)のスポーツ指導者海外研修としてFCバイエルン・ミュンヘンに行かせてもらった。
加地 JFA(日本サッカー協会)の仕事を始められたのはいつですか?
田嶋 1993年からだね。Jリーグが開幕したその年に、川淵三郎チェアマン(当時)に声を掛けてもらい技術委員になった。とはいっても、当時はまだサッカー界自体が手探りの時代で、技術委員としての活動はほぼボランティアだったけど(笑)。当時はみんなそうやって、なんとかこのサッカー界をよくしようと頑張っていた時代で……ちょうどそのころ、中田英寿や宮本恒靖がU-17日本代表に選ばれていたから、彼らの通う高校に技術委員としてあいさつに行ったりもしたよ。
加地 アンダー世代の代表監督もされていますよね?
田嶋 技術委員を終えた後、U-17日本代表監督としてU-17 FIFAワールドカップに行き、勝つことはできなかったけど次のU-19日本代表監督も任せてもらった。それが今野泰幸、川島永嗣らの世代なんだけど、実は長谷部誠は自分が代表から落としたんだ。
加地 のちに日本代表の顔になり、ドイツでも活躍しているあの長谷部を?!
のちに日本代表で長くキャプテンを務めた長谷部誠選手と。写真は日本代表出場数100試合を達成した長谷部選手の記念セレモニーで[写真]Getty Images/Etsuo Hara
田嶋 見る目がないよな(笑)。だから、ということではないけど、U-20日本代表を指導していた最中に川淵さんから「技術委員長をやってくれ」と頼まれ、代表監督を大熊清さんに引き継いで現場を離れたんだ。以来、技術委員長、理事、専務理事、副会長を経て、会長になったんだけど……って、こんな話ばっかりしていていいの? 自分のキャリアなんて誰も興味がないでしょ?
加地 いえ、むしろ近年は、昔の田嶋さんのことを知らない人のほうが多いから、みんな興味深く読んでくれると思います! ちなみに、選手時代から協会の仕事には興味があったんですか?
田嶋 そうでもなかったけど、誰かがやらなきゃいけないし、それなら絶対にサッカーへの理解があり、サッカーを分かっている人間がするべきだという考えはあった。さすがに技術委員長に就任するときは「これを引き受けたらもう現場には戻れないかな」と悩んだけど、最後はサッカー界にお世話になり、サッカーに育てられた人間として力になりたいという思いが勝った感じかな。
育成環境の改革
加地 2016年にJFA初の会長選挙で当選し、会長になられましたが、当時は何から着手しようと思っていたんですか?
田嶋 子どもたちの育成環境を変えていきたいというのは技術委員長の時代から取り組んできたことのひとつで、そこは継続したいと思っていた。例えば、全日本少年サッカー大会を11人制から8人制に変更したり、世代別代表の強化に取り組んだり。国体の少年男子の出場資格をU-18からU-16に変更したり。これはU-17日本代表が長く世界大会への出場権を逃している現状を受けて、高校1年生年代を強化することが目的だったんだけど、その始まりが南野拓実らの世代だった。
また、キッズ年代(6~10歳)へのアプローチとして、2003年から47都道府県サッカー協会と連携して各地の保育園や幼稚園で巡回教室を行う『JFAキッズプロジェクト』をスタートしたんだけど、それには久保建英や堂安律たちの世代が参加していたと思う。
加地 育成環境の改善が、強化につながっているんですね。
田嶋 そうして日本サッカー界全体を見渡しながら、必要に応じて制度を変えたり、新しいことに取り組んでいくことがサッカー協会の仕事であり、存在意義でもあるからね。またJヴィレッジやJ-GREENをはじめ、幕張にできた『高円宮記念JFA夢フィールド』もそうだけど、誰もがサッカーを楽しめる環境を整えていくことや、普及や育成のインフラ整備のところも、協会がトップレベルの強化と並行して地道に取り組んでいかなければいけないことだと思う。
JFAは「代表強化」「選手育成」「指導者養成」を軸とした強化策と普及活動を推し進めながら、選手の強化育成と日本サッカーのレベルアップを目指している[写真]清水真央
加地 夢フィールド、行きましたよ! 内覧会のときにゲストとして呼んでいただいて案内役を務めました!
田嶋 ありがとう。夢フィールドは、男女の日本代表チームのトレーニング拠点としてだけではなく、指導者や審判の養成を始め、テクニカルやスカウティングの知見、メディカルなどの医科学的データなど、さまざまな情報を収集して分析し、それを日本のスポーツ界、アジア、世界に発信していくために作った施設だけど、あのロッカールームに入ったら、選手はきっと「ここでやりたい!」って思うよな。
加地 利用した子どもたちは間違いなくワクワクすると思いました。
田嶋 自分がドイツに留学したときにも感じたけど、環境ってすごく大事だし、それを整備していく意味は絶対にあると思う。昨今は100人を超える日本人選手がヨーロッパでプレーする時代になったけど、それは間違いなく、育成の環境整備を地道にやってきた成果で、決して偶然ではない。加地たち「79年組」と呼ばれる世代だって、2002年FIFAワールドカップの招致活動も兼ねてアカデミー世代から、繰り返し世界各国に遠征したことで強くなっていったしね。
加地 アフリカのブルキナファソまで行ったりしましたよね。「なんでこんなところまで試合しに来てるんやろ?」って思っていました(笑)。
当時、世代別代表を率いていたトルシエ監督のもと、1999年のFIFA U-20ワールドカップ ナイジェリア大会に向けたブルキナファソでの合宿を経験した加地さん。アフリカの厳しい環境下でメンタルを磨いた[写真]清水真央
田嶋 それも協会としては将来を見据えた“種まき”で、それが1999年のFIFA U-20ワールドカップ準優勝や「ゴールデンエイジ」と呼ばれる世代の誕生につながったんだと思う。そのことからも、われわれ協会は常に世界を見て、将来を見据えて仕事にあたらなければいけない。それが必ず日本代表の強化や、日本のサッカー界全体の底上げにつながるから。
加地 そう考えると、1998年のフランス大会から始まる7大会連続のワールドカップ出場も、きっと時間をかけた、いろいろな方の尽力があってこそ実現できたことだったんだなってあらためて思います。
田嶋 間違いなく日本サッカー界に底力がついてきたことを示していると思う。ワールドカップ予選ってリーグ戦で行われる中で、ときにオマーンやサウジアラビアに負けることもあるけど、でも最終的にリーグ戦は強いチームが必ず生き残るから。結果的に、1998年以降、ワールドカップ出場を継続してこられたのは、さっき話した環境面を含めたいろんな整備をしてきた成果であり、いろんな方のいろんな尽力の結果だと思う。
加地 何度味わっても、ワールドカップ出場が決まったときってうれしいものですか?
田嶋 そりゃそうだよ。だって、仮にワールドカップに出場できないなんてことになったら、収入もガクンと下がって遠征や環境整備、普及活動など、いろんなことにお金をかけられなくなってしまうし、いっしょになってサッカー界をつくり上げてきてくれた人たちの思いも無駄にすることになってしまう。だから会長として、アジア予選を経験した前回(2018年)のロシア大会と今回(2022年)のカタール大会は、毎回、尋常じゃないプレッシャーを感じながら試合を見ていたし、そのぶん、出場が決まったときはものすごく……泣くくらいうれしかった。
2022年FIFAワールドカップ カタール大会アジア最終予選を突破し、7大会連続出場を決めた日本代表。最終予選では1勝2敗の苦しい序盤から一転、6連勝で本大会出場を勝ち取った[写真]Getty Images/Kaz Photography
ワールドカップベスト8常連国へ
加地 ちなみに、会長職の任期はあと何年あるんですか?
田嶋 約2年。会長職は2年ごとに任期が更新されて、最長でも4期までという規約があるから、2024年3月で満了になるんだよ。
加地 育成環境の整備は今後も続けていくという話がありましたが、それ以外に、残り2年で取り組みたいことはありますか?
田嶋 選手の価値、日本代表の価値を高めていきたい。例えば、最近はベルギーでプレーする選手も増えたけど、ベルギーリーグは3部のチームでさえ、家や車を提供してくれたり、生活に困らないくらいの給料が支払われているのに対し、日本のJ3リーグの現状は、まだまだそこには及んでいない。ともすれば、一般企業より給料が低いチームもたくさんあるし、プロとは言い難い環境でプレーしているチームも多い。そこはJリーグと一緒に協会としても考えていかないといけないと思う。選手の海外移籍が増えた今だからこそ、プレーヤーズファーストの視点でJリーグのシーズン移行が進むように働きかけていかなきゃいけないとも思うしね。
以前からJリーグのシーズンを欧州主要リーグと同じ秋春制に移行する必要性を訴えてきた田嶋さん。日本サッカーの発展のためには世界基準に合わせることが必要と話す[写真]清水真央
加地 日本サッカーの価値を世界トップレベルの水準に近づけていくということですね。
田嶋 まさしく。それから、さっきの育成の話につながるところでは、小学生の全国大会を続けていくべきか、勝利至上主義になってしまうことでやめていく子どもたちが多いんじゃないか、ということも整理しなければいけないし、学校の部活動がなくなりつつあることも考えるべきことのひとつだと思う。これまでのように、学校教育の中での部活動なら、顧問の先生が選手の家庭環境まで把握できていたぶん、例えば家庭環境的に部費を払うのが難しい子どもたちもなんとかサッカーを続けられたけど、この先クラブチームだけになったら、月謝を払えない、移動の電車賃を払えない、といった選手はサッカーができなくなってしまう。そこの環境整備にも取り組んでいきたい。
加地 トップレベル、日本代表の強化、発展についてはどんな目標を描いていますか?
田嶋 ワールドカップで常にベスト8位内に入れる国にしたい。常にベスト8に入り続けていたら、いつか必ず優勝する機会が訪れると思うから。そのためには選手個々の力や指導者のレベルアップが不可欠だし、自分たちもそのための行動を起こしていかなきゃいけないと思う。もちろん、いつの時代も改革はすごく大変だし、痛みを伴うこともあるけれど、日本のサッカー界はそれを繰り返してきたからこそ、今があるわけだから。もちろん、これまでもすべてがうまくいったわけではなく、いろんな失敗もしてきたけれど、先を見据えた行動を常に起こしていかないと、いつか必ず停滞に陥ってしまう。そこは残りの2年でも意識して取り組みたい。
加地 近年は若い人たちのサッカー離れも目立ちつつあり、代表戦を見ていても、サッカー自体の人気がなくなってきているのを感じます。
田嶋 それも真剣に考えていかなきゃいけないと思う。実際、日本国民のうちどれくらいの人が、今のJリーガーの顔を知っているかと言えば、本当にコアなサッカーファンだけだよね? それじゃあ人気も集まらない。
加地 日本代表選手の顔すら知らない人も多いですしね。それはスター性のある選手がいなくなったからなのか、露出の問題なのか……。
田嶋 自分は露出の問題だと思う。だって冨安健洋なんて今、アーセナルFCのレギュラーだよ。伊東純也は、ドラマの主人公みたいに端正なマスクでベルギーリーグのベスト11に選ばれるような選手だよ。そうやって素晴らしい選手がどんどん育ってきているのに人気が出ないのは、やっぱり露出の問題だと思う。それについては、少し前にも話題に上ったテレビ放映権、世の中の関心が高いイベントについては、誰もが自由に視聴できるユニバーサルアクセス権の問題にも粘り強く取り組んでいきたいと思っている。
田嶋さんは2022年ワールドカップ最終予選の放映権高騰によりアウェイ戦が地上波で放送されなかったことを問題視し、アジア予選などの日本代表の試合を無料視聴できる法整備を国に求める考えを明かした[写真]清水真央
加地 最近はクラブをはじめ、協会やJリーグにも元プロサッカー選手が増えました。これはポジティブな要素だと捉えていますか?
田嶋 間違いない。自分自身は今もサッカーへの理解が深い人間が日本のサッカー界を引っ張っていくべきだと思っているし、プロを経験して、世界を経験して、ワールドカップや日本代表を経験した選手たちが引退後、いろんな勉強をして、また違う形でサッカー界に貢献してくれていることはすごくポジティブなことだと思う。長谷部誠みたいに海外で評価されている選手も増えてきた今、彼らが海外で得た信頼やネットワークなどを駆使してまた日本のサッカー界に貢献してくれたら、それはすごくうれしいことだしね。加地も、しっかり協力してくれよな。
加地 残念ながらぼくには何の力もないですけど、今日の対談で、あらためて自分がどれだけの人の思い、行動に支えられてサッカーができてきたのかを思い知ったし、実際、引退した今は、そう実感することばかりですから。解説などの仕事をさせてもらうと、ひとつの試合をつくり上げるのにこんなにたくさんの人が関わって、準備をしてくれていたのかと気付かされますしね。そういうことを伝えていくことは、ぼくができる役割のひとつかなと思っています。
田嶋 ありがとう。自分も負けないように頑張るよ。
加地 これからも日本サッカー界をよろしくお願いします。今日はありがとうございました。
日本サッカーの現在と未来について熱く語られた本対談。最後は互いに激励の言葉を送り合って幕を閉じた[写真]清水真央
text:高村美砂
photo:清水真央
※人物の所属および掲載内容は取材当時のものです。










