人間の可能性を追求するパラスポーツの価値
木村 敬一選手
東京2020パラリンピック 競泳金メダリスト
スポーツ業界で活躍する著名な方をお招きし、成功の秘訣やその裏側に迫る「SPORT LIGHT Academy」。2021年10月11日に行われた第21回のゲストは、東京2020パラリンピック競泳金メダリストの木村敬一さん。
2008年の北京パラリンピックから2016年のリオデジャネイロ・パラリンピックまで3大会連続出場を果たし、通算6個のメダルを獲得。念願の金メダルを獲得した東京2020パラリンピックの興奮も冷めやらぬなかで開催された今回のイベントは、第一線を走り続けてきた木村さんの案内のもとパラスポーツの世界の新たな一面を垣間見る貴重な時間となった。
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木村さんが水泳を始めたきっかけや学生時代のエピソード、パラリンピックでメダリストになるまでの道のりなど、たっぷりと語ってくれた[写真]本人提供
2歳で光を失い、31歳で金メダリストになるまで
輝かしい実績の数々と木村さんの持つ障害について、司会者から簡単な紹介がされた後、木村さんが登場した。
「ただいまご紹介いただきました、パラリンピック競泳の木村敬一と申します。“全盲”といいましてまったく光も見えていない状態ですね。2歳で完全に光ごと失っていますので見えていたという記憶はまったくないです。パラリンピックは、東京大会を含めて4回出場してようやく金メダルに手が届いて、今はすごく幸せを感じています。人生といってもまだ31年しか生きていませんが、人生で立てた一番高い目標を達成できた段階で、次に向けて今どうしようかなと思っている段階です」
今の心境を率直に語ってくれた木村さん。イベントでは司会者や参加者から寄せられる質問に、時折ユニークな視点を交えながら回答してくれた。話題は、木村さんが過ごしてきた幼少期にも及んだ。
「生まれは滋賀県の田舎のほう。父がアウトドア派で、スキーに行ったり、琵琶湖に行ったり、F1グランプリを見に行ったり、いろんなところに出かけていたこともあって外出も体を動かすことも抵抗がなかったんですが、母は心配性でした。スポーツ好きでケガの多かったぼくに、行動範囲が限られるプールなら安全なのでは?と、母がスイミングスクールに入会させてくれました。そこで小学校を卒業するまでに4泳法(クロール・平泳ぎ・背泳ぎ・バタフライ)で25mを泳げるようになりました」
小学校までは滋賀県内の特別支援学校に通っていた木村さんだが、もっと多くの人と関わる経験をしてほしいという父の後押しを受けて、東京の特別支援学校に通うことになる。
「滋賀県内の特別支援学校というのは本当に人数が少なくて、小学校6年で自分を入れて学年4人くらいでした。東京の学校に進学してからは、ある意味父の思惑どおり、いろんなやつがいましたね(笑)。当時はまだ昔ながらのいじめとかもまかり通っていたころで、『おい、パン買ってこい!』とか漫画みたいに先輩にパシリにされたり……。
そんな中学校で水泳部に入ったときに知り合ったのが恩師の寺西(真人)先生です。先生と出会い、そこから中高6年かけてパラリンピックへの道を歩んでいくことになります」
目が見えなくても安全なスポーツとして母に勧められたことが、水泳を始めたきっかけだった[写真]本人提供
単身での上京、友人との出会い、12mしかないプールでの練習、寄宿舎生活でのホームシック。波瀾万丈な中学・高校時代を過ごしながらも、水泳に打ち込み記録を更新し続けた木村さんは、数々のパラリンピック水泳選手を育て上げ、日本代表のコーチも務めた顧問の寺西真人氏に見いだされ、活躍の舞台を広げていく。
17歳で2008年北京パラリンピックに出場。2012年ロンドン・パラリンピックでは旗手をつとめ、銀メダルと銅メダルを獲得。2016年リオデジャネイロ・パラリンピックでは、銀メダル2個と銅メダル2個を獲得。トップスイマーとして輝かしい成績を残してきたが、金メダルへの道のりでは挫折も経験した。
「リオの時点でも金メダルを狙える力は持っていたと思いますが、アスリートとして自分を管理しきれていなかった。毎日の練習で精いっぱいだったように思います。その後、リオで負けて考えるなかで、金メダルを獲りたいと思うようになりました」
その後、2020年の東京大会を控えるなかで日本国内での練習環境は充実していたが、木村さんはあえてアメリカへ渡る決断をする。
「自分なりにはリオまでがんばったなかで、結果が出なかった。日本で同じ環境で続けるよりも、環境を変えて挑戦したかった。最悪でも英語をしゃべれるようになればそのぶんプラスになるとは思っていました(笑)。結局、環境を変えて速くなりました。気持ちの持ちようがいかに大切かも痛感しましたね」
アメリカでの武者修行の日々を経て、東京2020パラリンピックでついに悲願の金メダルを獲得する。木村さんはリオ大会との違いについて、「いつでも金メダルを獲るんだと思えていた。あのなかで一番『金を獲りたい』と思っていたのは自分だ、という自信はあります」と語った。
当然その陰にも、計り知れない努力があったのは間違いない。それでも、 “思い”こそが違いだったという金メダリスト自身の言葉は、非常に印象に残る1シーンだった。
東京2020パラリンピックでついに獲得した悲願の金メダル[写真]本人提供
パラアスリートが「職業」になった時代
東京2020オリンピック・パラリンピックを終えて、オリンピック選手とともにメディア出演する姿を見る機会も増えたパラアスリートだが、ほんの十数年前までは、彼らは今とはまったく異なる競技環境で闘っていた。木村さんは自身のパラリンピックでの歩みとともに、その変遷を語ってくれた。
「パラリンピックという領域のなかで、“アスリート”というものが職業として成立するようになったのも、ここ5~6年のことなんですね。いろんな企業のサポートを受けて、トレーニングをしていること、試合に出続けていることが仕事として成立するようになったのはこの数年で、われわれはそういった一番いい環境を経験した第一世代になります」
2012年のロンドン大会前後まで、パラリンピックに出場するレベルの競泳選手も、練習では公営プールなどを一般客として利用していたという[写真]本人提供
「2008年に行われた北京パラリンピックのころは、練習場所は学校のプールと一般の公営プール。指導者は、学校の部活動の先生や、障害者を日ごろ支援している施設の方々。休日や業務外、仕事が終わってから、夜に指導してくださるのが一般的でした。ぼくは学生でしたが、社会人の選手たちにはそれぞれオフィスワークや公務員、学校の先生など自分の仕事がありました。練習は当然夜しかできず、有休を使って合宿・遠征に行く、という競技生活でした。2012年のロンドン大会のころには、ナショナルトレーニングセンターや国立スポーツ科学センターをオリンピック選手がいない期間は使えるようになりましたが、普段の練習場所は変わりません。指導者も変わらず、ボランティアの方。
その後、東京オリンピックの招致が決まった2013年あたりから、企業がパラ選手をアスリートとして雇ってくれるようになり、強化費をサポートしてくれるようになりました。強化費とは、施設使用料やトレーナーの方に指導してもらえるコーチング料、サプリメントを買うお金、マッサージ費用などに使うお金です。それまで預金残高が減っていく一方だったのが、『なんか減らなくなったぞ(笑)』となり始めた感じでしたね。
リオの直前にはもっと加速し、物品提供をいろんな企業から受けられるように。そんなふうに、より市場に入り始めたのが2016年ごろ。大学でもパラ選手に関する研究が進むようになるなど、研究機関もパラスポーツに興味を抱くようになったし、文部科学省から研究費が出るようにもなりました。そして、東京オリンピックを控えるなかで、企業からのサポートは継続。大学がスポーツ推薦でパラ選手を入学させ始めるなど、ますます若いころからトップ選手としての階段を上がっていけるようになり始めました」
いま競技会に出場している選手のほとんどは、大学あるいは企業の所属になりつつあるという。環境が整備され、パラアスリートの挑戦が後押しされる一方で、アスリート生活が職業として成立するようになることで生じた新たな問題もある。
「今後、障害を持ったアスリートのセカンドキャリアというのは必ず問題になってくると思います。以前であれば、引退したら職場に戻るだけでした。自分自身の問題として、いま向き合っています」
「人間の可能性」を描く障害者スポーツの価値
パラリンピックをとりまく環境の変遷についての話を受けて、参加者からは「オリンピック選手との扱いに違いや不満はありませんか?」という質問が寄せられた。それに対して木村さんは、オリンピック選手と間近で過ごしてきたからこそ感じた、独自の意見を話してくれた。
「自分でも思っていてびっくりしたんですが、実際のところ今は違いをほとんど感じなくなっています。それこそ、北京、ロンドンのときは違いをすごく感じていて、ああいう施設を使わせてもらえたらいいなとか、あれぐらいお金を使えたらいいな、という思いがありました。
でも、リオのパラリンピックを迎えて同じように扱ってもらえるようになったときに、そこに責任が生まれてくるわけですよ。オリンピック選手に負けないような選手でいなきゃダメだなって思うと、そのときにそれってすごく“自分にとって荷が重い”って思っちゃったんですね。
……というのも、オリンピック選手は、本当に幼いころから激しい競争を勝ち抜いて、勝ち抜いて、勝ち抜いた先にあの舞台に立ってるわけで。ぼくらは勝ち抜いたといっても、オリンピック選手に比べたら100分の1くらいの人数しか倒してないわけですよ。そこに向かっていくために流した涙や汗の量がぜんぜん違うし、やっぱり一緒の練習会場とか行かせてもらうと、“強さが違いすぎる”ということを肌で感じるわけです。
『こんなんじゃまだまだダメだな』って思って、トレーニング環境もメディアに対しての振る舞いも、オリンピック選手と並ぶことが、どれだけしんどいことなのかということをリオのパラリンピックのときには思ったんです。批判もぼくらの何百倍も浴びているはずです。不満があるどころか、やっぱりまだパラの選手はオリンピック選手に対する一定以上のリスペクトをみんな持っていると思っています。近づけば近づくほど、『やっぱり彼らはすごいな』と思いますね」
東京大会を終えて、イベントに呼ばれることも増えたという木村さん。今後はパラスポーツの裾野を広げるような活動にも挑戦したいと語った[写真]本人提供
イベントの最後には、木村さんからの応援への感謝と、参加者へのメッセージで締めくくられた。
「パラリンピックにはオリンピックとはまた別の価値があると思います。その価値の一番大きなものは、“人間の可能性”だと思っていて、変な話、障害があっても、身体を鍛えればこれだけ速く泳げるようになるんだとか、これだけ速く走れるようになるんだとか、そういう人間のポテンシャルを感じてもらえるのがパラスポーツのいいところだと思っています。
そういうものに触れて、障害というものを一つの武器として戦っている人間を見てもらって、その違いを面白いと思ってもらえれば、それはみなさんの視野を広げることにもつながるはずです。東京、地方を問わず、いろいろな種目の競技会が開催されていますので、ぜひ会場に足を運んでいただいて生で選手たちの戦いぶりを見てもらいたい、というのが、ぼくたちからの一番のお願いです。本日はありがとうございました」
パラアスリートとして最前線を走り続けるとともに、パラスポーツをとりまく環境の変遷を裏側から見つめ続けてきた木村さんの話は、アスリートの世界をこれまで以上に興味深いものに感じさせてくれた。今後のパラスポーツのさらなる発展と、木村さんのこれからの活躍が期待される1時間半だった。
text:川端優斗/dodaSPORTS編集部
photo:本人提供
※人物の所属および掲載内容は取材当時のものです。










