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サッカー選手の内面に踏みこみ世に伝えていく

安藤 隆人さん

サッカージャーナリスト

サッカーが好きで、でもプロ選手にはなれず、ジャーナリストになる道を選んだ。大きく羽ばたくために銀行で社会人としての見聞を広め、27歳で退路を断って上京。最初は苦労した。貯金を取り崩しての生活。耐えに耐えて、実績を積んで一人前の書き手になった。しかし、30代後半になって壁にぶつかった。悩んで出した結論は、仕事のスタイルを変えることだった。

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    『Number Web』や『サッカーダイジェスト』などさまざまなメディアに寄稿する[写真]新井賢一

    ユース年代を追いかける

    ———これまでどんなメディアで記事を書かれてきたのでしょうか?

    最近は『Number Web』で『“ユース教授”のサッカージャーナル』という連載を担当させていただいていますが、それ以外はスポットの仕事です。『サッカーダイジェスト』や『エル・ゴラッソ』『サッカーキング』などで記事を書かせていただき、執筆以外だと年に7から10本ぐらい講演活動をさせていただいています。

    高校がメインで、そのほか大学、中学、それと企業でも講演の機会をいただいています。あとは本を書いています。昨年10月に9作目となる、白血病を患った早川史哉(アルビレックス新潟)の『そして歩き出す サッカーと白血病と僕の日常』という本を執筆して、今は新たなチャレンジをしているところです。

    ———新たなチャレンジとは?

    ぼくはこれまでサッカージャーナリスト、サッカーライターという肩書で仕事をしていて、『そして歩き出す』のほかに、3年前にも梅崎司(湘南ベルマーレ)が経験した家庭内暴力をテーマにした『15歳 サッカーで生きると誓った日』などのノンフィクションを書いてきました。『15歳』はすごく大きな反響があり、それをきっかけに作家活動のウエイトを増やしていて、今はフィクションにも挑戦しています。

    ———サッカージャーナリストとして、日々どういうスタイルで仕事をしているのでしょうか?

    どこかの媒体と契約したり、チームを決めて定点観測したり、いろいろなやり方があるんですけど、ぼくはチームなどを決めていなくて、気の向くままに行きたいところに行って取材しています。ただ、そのスタイルをずっと続けていると疲弊するんですよね(苦笑)。

    得意としているユース年代を追いかけて、海外も含めていろいろなところを飛び回って、そういうところは評価されてきたと思いますけど、それは動き続けているからであって、止まったら評価されなくなるんじゃないかという恐怖も常にありました。

    それで5年ぐらい前から、このスタイルから脱却したいと思うようになりました。全国を動き回っていなくても、この人に書いてもらいたいというライターにならないといけないなと。それでノンフィクションに取り組むようになったんです。

    ———仕事の割合は変わりましたか?

    5年前は取材80パーセント、執筆20パーセント。今は取材50パーセントで執筆40パーセント、講演が10パーセントぐらいの割合です。これまではインプットの量が武器だったんですけど、アウトプットの機会を増やしました。結局アウトプットのパーセンテージを増やしていかないと意味がないなと思って変えていきました。

    大学在学中から高校年代を中心にサッカーの取材を続けている[写真]新井賢一

    銀行に5年半在籍

    ———もともとどういうきっかけでサッカージャーナリストを目指したのでしょうか?

    サッカーが好きで、選手権(全国高等学校サッカー選手権大会)にあこがれて、小学2年生のときにいとこと一緒にサッカーを始めました。それから中学生までガッツリやって、でも高校で挫折というか、勉強も大事だからと進学校に進み、ケガや病気もあって続けられなくなって。

    でも同い年のいとこは岐阜工業(岐阜県立岐阜工業高等学校)に行って全国大会にも出たんですよ。中学時代のチームメートも高円宮杯全日本ユース(サッカー選手権大会)に出て、兄も陸上では全国的な選手でした。ぼくだけ全国に行けなくて、それで劣等感を抱いていたんですが、そのときに本でサッカーライターの存在を知って目指すようになったんです。

    当時は選手権や高校サッカーのライターがいなくて、じゃあぼくはここをやろうと。それから大学4年間でいろいろな試合に行きました。でも記事を載せるところがなくて、ずっと書きためていたんです。それはいまだに日の目を見ていません(苦笑)

    ———大学卒業後は銀行に入行したそうですね。

    そうですね。ぼくは岐阜県出身で社会人になるタイミングで上京も考えたんですけど、収入の問題もあり、まずは地元で就職しようと。それで土日が休みで、社会のことも分かって、なおかつお給料もいいところに行きたくて、大垣共立銀行に行きました。大手企業などいくつか内定をいただいたんですが、将来サッカージャーナリストになるために、一番いいのは銀行かなと。

    ———銀行には何年いたんですか?

    5年半いました。22歳の若造が50代、60代の社長を相手にお金の話をするんですよ。まあ、キツかったです(苦笑)。体力的にもしんどかったですね。平日働いて、金曜の夜に移動して土日に高校サッカーの取材をして、月曜の朝に戻ってくる。そんな生活を2年ぐらい続けて体がおかしくなって、一度親に泣きながら言ったんですよ、「もう辞めて上京する」って。

    そしたら親は「ここで辞めたら全部中途半端になるぞ」と。それで冷静になれたというか。銀行員としてしっかり5年働いて、みんなに認められてから辞めようと。そう心に決めてからは銀行での仕事もめちゃくちゃ楽しくなりました。いい成績を残せるようになり、ちょうどそのころ、ボランティアみたいな形でしたけどサッカーライターデビューもできたんです。

    ———それから予定通り5年間働いて、サッカージャーナリストに転身できたんですか?

    全国の指導者に認められるようになって、少しずつライターとしての仕事が増えていって、5年目になってそろそろ辞めようと考えているとき、当時星稜高校の3年生だった本田圭佑(ボタフォゴ)と3時間ぐらい話したんです。

    それまでに彼の進路相談にも乗っていて、彼は名古屋グランパス入りを決めていました。それで将来のことを話していたときに、圭佑は覚えていないかもしれないですけど、逆に「安藤さん、銀行辞めないんですか?」って聞かれたんです。ちょっとびっくりして、「辞めようか迷ってる」って言ったら「俺らと一緒にプロになりましょうよ」と。

    ちょうど同時期に滝川第二高校の岡崎慎司(ウエスカ)や、前橋育英高校にいた細貝萌(バンコク・ユナイテッド)にも同じようなことを言われて、相手はプロになるのに自分がアマチュアではフェアじゃないなと感じて、圭佑にそう言われた翌日辞表を出しました。でも「待ってくれ」と受理してもらえなくて、結局半年後に辞めました(苦笑)。

    ———最初からうまくいきましたか?

    しばらくは貯金を取り崩して生活していました。上京して、あえて家賃が高いところに住んで自分にプレッシャーをかけて、とにかくいろいろな現場に行ってインプットして、特に香川真司(サラゴサ)や槙野智章(浦和レッズ)、内田篤人(鹿島アントラーズ)などの“調子乗り世代”を中心に追いかけ、海外遠征にもほぼすべて行きました。だんだん貯金も目減りしてかなり焦りましたけど、5年目ぐらいに雑誌の『Number』でデビューさせてもらったんです。そこで流れが変わり仕事がどんどん増えていきました。

    岡崎慎司らの恩師でもある、滝川第二高校サッカー部を率いた黒田和生さんとの2ショット。安藤さんは黒田さんから多くのことを学び、人生相談にも乗ってもらったという[写真]本人提供

    選手の内面を聞き、伝える

    ———安藤さんの強みは指導者や選手との距離を詰めて、深い取材ができることだと思います。彼らと接するときに心掛けていることはありますか?

    同じ目線に立って話すようにしています。これは銀行時代から意識していたことで、ぼくは20代前半のときから年配の方々と一緒に仕事をしてきました。50代から70代の指導者と向き合うときも同じで、かわいがられることも大事ですけど、それ以上に相手がハッと思うようなことを言えるようにならないといけないなと。

    10代の選手も同様です。自分が年齢を重ねていくことでどんどん年が離れていきますけど、そこで上からいったら選手は話を聞いてくれないんですよ。下からいってもダメ、下からだと選手が上から来ますから。だから正面に立って同じ目線で話すようにしています。それと会話するとき、ぼくはいろいろな視点で自分と相手を見るようにしています。自分の視点、相手の視点、自分と相手をあらゆる角度から見る客観的な視点。この3つのカメラを持つことで相手が本音で話しているかが分かるし、表情や感情の変化も分かる。

    10代の子ってボキャブラリーが少ないし、例えば問いかけたときの「はい」の意味を読み解くのも難しいんですよね。本心の「はい」か、適当に答えた「はい」か、戸惑っている「はい」か。それも相手の視点に立ったり、客観的な視点に立ったりすると分かってくるんですよ。

    ———これまでたくさんの方々を取材されてきたと思いますが、特に思い入れがある選手や指導者は?

    指導者はどの方にも大変お世話になっていますけど、あえて1人を挙げるなら滝川第二高校の監督だった黒田和生先生です。「怯まず 驕らず 溌剌と」というのが滝川第二の精神で、そのことをぼく自身も教わりました。ぼくが銀行員のときにはダルマを買ってくれて「お前がこのダルマに目を入れるのを楽しみにしている」と言ってもらったんですけど、いまだに1つしか入れてないんですよ。もう1つは自分の仕事に納得したときに入れようと思っています。

    それと昔は滝川第二のユニフォームの背中に「ESPERANZA(エスペランサ)」って文字が入っていました。今は高校サッカーの規定で入れられなくなったんですけど、スペイン語で「希望」という意味です。ぼくが銀行を辞めようか悩んでいるとき、黒田先生に相談したんですけど、そのときに背中をパンとたたかれて「お前の背中にエスペランサを刻んだからがんばれ」と。本当に素晴らしい指導者で、サッカーだけでなくいろいろなことを学ばせていただきました。

    ———では選手は?

    選手に関しては山ほどいますけど、岡崎慎司、細貝萌、本田圭佑は銀行での最後の年に高3だったこともあって特に思い入れがあります。銀行を辞めるときに背中を押してくれましたし、大切な存在ですね。

    それと香川真司。淡々としているように見えますし、あまり本心を出さないんですけど、実はものすごく熱い選手なんですよ。

    あと南野拓実(リヴァプール)はずっと天才と言われてきたんですけど、ピッチ上での感情のコントロールが難しいところがあって。でも実際はサッカーが大好きな、すごく純粋な選手なんです。コミュニケーションを重ねれば重ねるほど、印象がすごく変わると思います。

    ———これまでで特に記憶に残っている仕事は?

    2013年から2014年まで、『週刊少年ジャンプ』で『蹴ジャン!SHOOT JUMP!』という連載を持たせていただいたことですね。毎週4、5ページの選手コラムとその選手にまつわる4コマ漫画を掲載していただき、そのほか『岡崎慎司物語』の原案も担当させていただきました。これをきっかけに仕事も増えましたし、サッカー以外の世界を知ることができました。

    ———デビューから20年近く経ち、今あらためて感じるサッカージャーナリストという仕事の一番の魅力は?

    大好きなサッカーの選手の内面を聞いて、それを伝えられることです。梅崎司や早川史哉の話ってこれまであまりオープンにされていなくて、そこまで踏みこんで話を聞き、それをたくさんの方々に伝えられる。史哉の本は、白血病などの大病を患っている方や、そのご家族などから大きな反響があり、手紙やメールをいただいたり、トークショーやサイン会に来てくださったりした方もいます。それって、今まで誰も入れなかった領域に入ったからで、すごいことだとあらためて感じました。

    プロサッカー選手という、みんなからあこがれられる強い存在の内面にある弱い部分に踏みこんで、それを世に伝えて周囲から反響をいただける。すごくやりがいのある仕事ですし、もっともっと突き詰めていきたいと思っています。

    ———思い描いている夢はありますか?

    夢は自由ですから、直木賞などの有名な賞を取れたらと思っています。これからはサッカージャーナリストとして、作家として、サッカーをサッカー好きな方々だけでなくいろいろなところに発信していきたいし、それがサッカーのためになったらなと。

    サッカーはなぜ人を熱狂させるのか。サッカーってただの球蹴りじゃなくて、サッカーならではの素晴らしさがあるんですよ。それを伝えるにはサッカーの、サッカー選手の深いところに入りこんで、世の中の人たちの心に突き刺さる発信をしていかないといけないと思っています。

    ライターを20年近く続け、「もっともっと突き詰めていきたい」と意欲を見せる[写真]新井賢一

    interview & text:dodaSPORTS編集部
    photo:新井賢一

    ※人物の所属および掲載内容は取材当時のものです。

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