シント=トロイデンVVが掲げる3つのビジョン
塩谷 雅子さん
シント=トロイデンVV 広報部 部長/合同会社DMM.com Football事業部 広報部長
2017年11月にベルギーのサッカークラブ、シント=トロイデンVVを買収しオーナー企業となったDMM.comにおいて、塩谷雅子さんはこれまでの経歴などを認められて、クラブの広報部長に就任した。それから2年近くが経過。選手の活躍に加え、地道なプロモーションとブランディングが実を結び、シント=トロイデンVVは日本サッカー界にも影響を与える確かな地位を確立した。
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実力と経験を買われて金沢のパート勤務から東京の事業部に異動[写真]山口剛生
広報としてのミッション
———これまで映像制作の会社で制作デスク、出版社などで編集者、ライター、日本スポーツ振興センターでスポーツ科学研究員のサポートなどを経験されたそうですが、現職にはどういう経緯で就かれたのでしょうか?
結婚、出産を経て32歳のときに日本スポーツ振興センターに契約職員として入り、3年ぐらいお世話になりました。国立スポーツ科学センターの研究・支援協力課というところに配属され、150人ぐらいいる研究員のサポートを中⼼に、Webサイトの運⽤や、選⼿のインタビューなどを担当していたのですが、夫が東京から金沢に転勤になり、娘と一緒に金沢に行くことになったんです。
金沢では、半年は専業主婦をしていたんですけど、自分の時間もあったのでいいアルバイトないかなって探して。そしたら自宅から徒歩30秒ぐらいのところにDMM.comの事業所がありました。そこにパートとして入ることになり、最初はデザイン部というところで庶務をしていました。ただ取材ができる、原稿が書けるというところを買ってもらってオウンドメディアに関わるようになり、ほかの事業の記事なども書くようになりました。
すると今度は東京のアニメ事業でDVDに入れるブックレットを作るから声優さんの座談会を担当してほしいと、パートなのに東京に出張したりして(笑)。それから社員になって、ブロックチェーンの事業が立ちあがるときにメディア担当として声をかけてもらい、東京に戻ってきました。
———ご家族も一緒に戻ってきたんですか?
夫もいずれ東京に戻ってくる予定だったので、私と娘だけ一足先に帰ってきました。夫も2019年の春に帰ってきて、今は3人で暮らしています。ブロックチェーン関連では自分で記事を書きつつ、広報的なこともやっていたのですが、組織改編があって2018年6月ごろにフットボール事業部に異動することになりました。
DMMがシント=トロイデンVVのオーナー企業になったのは2017年11月で、そのころから私は公式サイトやTwitterの開設などを担当していたんですけど、本格的に動き出した2018年初夏に正式に異動し、クラブの広報を担当することになりました。
———これまで広報業務を担当していたことはあるのでしょうか?
ないですね(笑)。でも最終的なゴールが分かれば、何をすればいいかは肌感として分かっていましたし、それほど戸惑うことはなかったです。自分が取材者側だった経験がすごく活きていて、どうしたら取材してもらいやすくなるか、どういうタイミングで情報を出せばいいかなどは理解できているかなと思います。ただ、広報としての正しい姿が分からないので「これで合ってますか?」ってよく人に聞いています(笑)。
———広報としてのミッションは?
広報になった当初は、一応公式サイトはありましたけど、「シントトロイデン」と検索しても全然記事が出てこなくて、当時所属していた日本代表の遠藤航選手(現シュトゥットガルト)が在籍しているクラブとして知られているぐらいでした。なので、まずは名前を知ってもらう、記事を出してもらうことが一番のミッションでした。
そのために、ものすごく地味な作業ですけど、知り合いの記者や元同僚に試合の結果やコメント、写真を送り続けました。何とか取りあげてもらおうと。最初は20人ぐらいに送っていたんですけど、それから名刺交換したメディアの方々などどんどん送り先を増やしていって、少しずつ取りあげていただけるようになりました。
それとTwitterにもコンスタントに情報を出していき、サッカーファンの方々にも認知していただけるようになりました。Twitterの運用は試行錯誤しながらで、クラブには日本人だけでなく他国の代表歴がある選手もいて、バリューがあるかなと思ってそうした選手の情報も出していたんですけど、日本人選手以外の情報をつぶやくとフォロワーが減るってことに気づいて(苦笑)、しばらくは日本人選手を中心に投稿していました。
そうやってとにかくクラブのことを知ってもらうのが、実質1年目、2018-2019シーズンの目標でした。その点においては、遠藤選手だけなく、冨安健洋選手(現ボローニャ)が日本代表に選出されたり、鎌田大地選手(現フランクフルト)が15ゴール決めたり、選手の活躍もあって報道もすごく増えたので成果を出せたと思います。
———では2シーズン目、2019-2020シーズンの目標は?
一部の選手だけでなく、チームのことを好きになってもらうことです。他国の選手の露出も少しずつ増やし、チーム全体を打ち出していければなと。私は広報業務のほかにスポンサーさんとの折衝に関わったり、企画を考えたりもしているんですが、例えば何かのビジュアルで3人の選手を出すときは、今シーズンはチーム感を出すために1人は他国の選手を入れるようにしています。
DMMは日本人選手ではなくシント=トロイデンVVというチームのオーナー企業ですし、広報としては多くの方にクラブに愛着を持ってもらい、クラブを通して何を追求していくのかを分かりやすく伝えていければと。それが今のミッションです。
2年目の今シーズンは「チームを好きになってもらうこと」を目標に掲げる[写真]山口剛生
ブランディングの難しさ
———業務はかなり多岐にわたっていそうですね。
そうですね。試合結果の配信、Twitterの運用、プレスリリースもそうですし、取材対応もあります。ただ広報業務で言うと、現地にも日本人スタッフがいて、選手周りは現場で対応するので、私は日本側の窓口をやりつつ、全体的なところを見ています。そのほか、スポンサーのアクティベーション部分(マーケティング活動)をサポートしたり、営業に行く際の企画なども考えたり、商談に同席することもあります。
———ちなみに、クラブスタッフは全部で何人ぐらいいるのでしょうか?
日本は4人ぐらいなんですけど、DMMの営業などいろいろな部署と連携しながら運営しています。それとベルギーに15人ぐらいいます。おそらくJ2の中堅クラブぐらいの規模感だと思います。その中で広報は私のほかに、2020年1月にベルギーに転勤した日本人と、強化にも関わっている現場付きの日本人、もともとクラブに在籍していたコミュニケーション部門の2人のベルギー人がいます。ただみんな広報専任ではなく、言語も日本語、英語、現地メディアが使うオランダ語といろいろあるので、取材対応などは複雑で難しいですね。
———現地とのやり取りもあるかと思いますが、勤務時間は?
時間が不規則なのでスーパーフレックスで働かせてもらっています。日本時間深夜に行われる試合の対応だったり、現地で入退団が決まったり、それらに合わせて動くこともあるので。シント=トロイデンVVというクラブは街のものであり、現地がすべての本流なので、情報発信もベルギーで最初に出しており、日本で先に出ることがないよう注意しています。
もちろん即対応は強く意識しているんですけど、移籍などは本当に突発的で、事前に「決まりそう」って連絡が来ても、ビザの取得状況などもあって予測がつかないんですよね。2020年1月3日に新監督(ミロス・コスティッチ)就任のリリースを出したんですけど、決まるっていう連絡が来たのが2日の深夜2時ごろで、お屠蘇気分は一気に抜けました(苦笑)。ただ即対応が難しいときもあるので、そうした場合はほかのチームスタッフと連携して対応しています。
———言語の違いや稼働時間以外にも、大変に感じることはありますか?
日本のクラブと違って、私たちの場合は「日本の顔」と「ベルギーの顔」があって、ブランディングが異なるところは難しいですね。クラブとして大事にしていることが3つあって、日本とベルギーで打ち出す順番を変えているんです。
1つ目は95年の歴史があるシント=トロイデンVVというクラブの繁栄。街の人々に愛されているクラブをプレーオフ1に導き、さらに飛躍させることがベースとしてあります。2つ目は日本サッカーの強化、日本サッカー界に貢献すること。そして3つ目がサッカークラブの健全経営。親会社による赤字補填などをせず、しっかりと計画性を持って事業として成立させ運営していくことです。後者2つはDMMとしても強く押し出しています。
これら3つをビジョンとして掲げているのですが、ベルギーで最上位に上がるのは1つ目です。でも日本で「ベルギーのクラブのために」と言ってもピンと来ないんですよね。だから日本では2つ目や3つ目を軸としています。3つともすごく大事にしていることなんですが、その比重は日本とベルギーで変えているところがあり、打ち出し方の大変さはありますね。
———ベルギーのファンの方々は「日本サッカーの強化」についてどう捉えているのでしょうか?
「また⽇本⼈選⼿か」とファンから揶揄されることもありますが、かなり寛大なところもあり、チームに10カ国以上の選手がいて、毎年半数近く入れ替わるので、チームが結果を残していれば愛情を持って応援してくれます。入れ替わりが多いのはシント=トロイデンVVだけでなく、ベルギーではほかのクラブもそうで、ある意味移籍金ビジネスで成り立っているところもあるので、日本のサッカーファンよりも移籍に対しては抵抗がないようです。
———これまで1年半ほど広報を務め、特に印象に残っていることは?
すべてのプロジェクトに携わっていることは自分にとってとても大きいです。営業案件でも事業案件でも、必ず横断的に広報として関わっていて、「シント=トロイデンVV×DMM.com」の、この2年弱の歩みを全部見てきたことは本当に大きなことかなと。それと選手の活躍やステップアップは本当にうれしいです。
遠藤選手や冨安選手が日本代表に選ばれて、鎌田選手が点を取り続けながらなかなか呼ばれない時期があって、2019年3月にようやく初招集されたんですけど、そのときも「当落線上」って聞いていたんですよね。でもリリースの準備をして、メンバー発表の中継を見て、いざ名前が呼ばれたときは、受験生の母親みたいに「あったよー!」って(笑)。そのときは遠藤選手がケガで外れたんですけど、今チームに所属しているシュミット・ダニエル選手も含め、新旧シント=トロイデンVVの4選手が日本代表にそろったら、“母”としてこれほどうれしいことはないですね(笑)。
2018−19シーズン第14節ズルテ・ワレヘム戦。左から鎌田大地、冨安健洋、遠藤航[写真]STVV
カンプ・ノウへ“戻る”
———話は変わりますが、現在は副業で全日本空手道連盟にも関わっていると伺いました。
2019年秋にスポーツ庁と人材系企業が推進して、スポーツ団体の経営力強化、競技力強化の一環で、副業や兼業での人材を募集していたんです。いくつかの競技があったんですが、全日本空手道連盟が2020年夏までの期間限定で広報プロモーションやブランディングの戦略ディレクターを募集していて、去年9月に応募しました。書類選考、面接、最後にプレゼンがあって、何とか合格し、今は夏の世界大会に向けてだいたい週1で対策本部に行っています。
そこまでメジャーな競技ではないので、対策本部では本番でどれだけの人に見てもらえるかの施策を立てています。連盟は新しい考えを受け入れる懐の深さがあり、すごく自由な提案ができています。
———もともと空手とは接点があったんですか?
ないです(笑)。マッチする職種が全日本空手道連盟しかなく、応募させていただきました。競技はあまり考えていなくて、それよりも新しいことがやりたくて。シント=トロイデンVVの広報も2年目に突入しましたけど、家族がいてベルギーに転勤することはできないですし、いつかは手放さないといけないと思うので、違うこともやってみたいなと。じゃないと、自分の成長も止まっちゃいますから。
———今はどんな業務を担当しているのでしょうか?
夏の本大会で一人でも多くの方に試合を見てもらうのが目標であり、ミッションです。なので、そこに向けてのプロモーション、みんなで企画を出し合ってブレストして。その中で10個ぐらいの企画が決まってきて、春ごろから夏に向けて順番に実施していきます。それぞれの企画を実際に動かしていくところにも関わっていく予定です。
———話を戻して、シント=トロイデンVVのスタッフとしての目標を教えてください。
シント=トロイデンVVのビジョンをもっと多くの方に知ってもらいたいです。スポーティブ面を強化して日本代表のラインナップにシント=トロイデンVVの選手がもっと増えれば、より伝えやすくなると思いますし、そのときに「シント=トロイデンVVはこういうクラブだよね」とか、「シント=トロイデンVV出身だからね」とか、目指していることを理解してもらえたらと思っています。そのためにも、いろいろな角度から私たちが大切にしている3つのことを言い続けます。
それと個人的なことなんですけど、20年ぐらい前にバルセロナのホームスタジアムであるカンプ・ノウに行って、すっごい端っこの芝を数本抜き取って瓶に入れて大切に保管してあるんです(笑)。そのときにいつか仕事でここに戻ってこようと誓いました。これは私の夢ですね。将来的にシント=トロイデンVVがチャンピオンズリーグでバルセロナと対戦する可能性もありますし、実現したときには仕事でカンプ・ノウに戻ってきたいなと。
———キャリアにおける目標などはありますか?
ビジネスの世界からスポーツ界に行って活躍している人って結構いるじゃないですか。逆に私はスポーツ界からビジネスの世界に行って貢献できるようになりたいなと思っています。シント=トロイデンVVでスポーツの現場や経営をしっかり学び、その経験を活かして活躍できればなと。スポーツに長く関わってきましたけど、ビジネスの世界との垣根をなくして、死ぬまで楽しく働きたいですね。
スポーツ界からビジネス界への、将来的な転身を思い描く[写真]山口剛生
interview & text:dodaSPORTS編集部
photo:山口剛生
※人物の所属および掲載内容は取材当時のものです。










