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「100回我慢すると誓った」インタビュー前編

井上 亘さん

新日本プロレスリング株式会社 広報宣伝部 広報宣伝コンテンツセクション 興行事業部 渉外・選手セクション 主任補佐

2014年の引退から4年、井上亘さんは主戦場をリングからオフィスへと移した。新日本プロレスの広報宣伝部と興行事業部の2つの部署に籍を置き、社内外へ競技の魅力をアピールする井上さんは明るく穏やかに、“第2のキャリア”について、そして昔にさかのぼり、あこがれていたプロレスラーになるまでのいきさつを語ってくれた。

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    井上さんは新日本プロレスで3つの業務に携わる[写真]兼子愼一郎

    社員として再出発

    ———2014年にプロレスラーを引退して、現在新日本プロレスリング株式会社でどんな仕事をされているのでしょうか?

    大きく分けて3つのことをやっています。1つ目は選手周りの仕事。2つ目はセガサミースポーツアリーナでの『athletic camp LION』というスポーツ事業。3つ目は病児支援です。

    ———選手周りとは、具体的に何をしているのでしょうか?

    私たちの団体には、「新日本プロレス本隊」、「CHAOS(ケイオス)」、「BULLET CLUB(バレット・クラブ)」、「LOS INGOBELNABLES de JAPON(ロスインゴベルナブレス・デ・ハポン)」、「鈴木軍」と5つの軍団があり、それぞれ広報、テレビ、マスコミ、出版などリング外の活動もあります。その中で、私は鈴木軍担当です。ほかのスタッフが鈴木軍の面々にモノを言うのは難しいですよ(苦笑)。

    私は、選手がリング外の仕事を行う際のいろいろなことを担当しています。それと試合前に、選手が困っていることがないか、いち早く察知して対応することも大事な仕事です。選手控室は昔からスタッフが入りづらいんですよ、選手がピリピリしているから(苦笑)。あそこは “聖域”なんです。

    ですが、私は幸いなことに選手を経験しているし、大半の選手が後輩なので。偉ぶることはないですけど、選手の気持ちを理解しつつ、困っていることがあれば助けるようにしています。会社にお願いしたいことがあれば私が間に入って話をしますし、逆に、会社が選手に伝えたいことがある時も、私が伝えています。

    ———それは、井上さんだからこそスムーズにできることかもしれないですね。

    とはいえ私もレスラーだったので、気性が荒いところもあります(苦笑)。だから選手とぶつかることもあるし、会社とぶつかることもあります。両方の気持ちが分かるからこその難しさもありますね。

    ———2つ目の『athletic camp LION』は2018年7月にオープンしました。どういった経緯でスタートしたのでしょうか?

    私自身もそうだったんですけど、プロレスラーを引退した後、何をすればいいんだろう、という悩みがありました。それもあって、今の選手たちが全力で戦い続けるためにも、将来の不安をなくしてあげたい、安心して戦えるようにしたい、とずっと思っていました。プロレスラーとして蓄えてきた技術やノウハウを何とか活かせないかと。

    引退後の道は人それぞれでいいと思いますが、私は選手の突然のことに備え、引退後の選択枠の一つを用意しておきたかったんです。そういう思いを形にしたのが『athletic camp LION』です。子どもからシニアまでが体を鍛えられるここでは、引退した選手も指導者として働くことができます。

    ———では3つ目の、病児支援はどんな活動をしているのでしょうか?

    世田谷に国立成育医療研究センターという、簡単に言うと、お母さんのおなかの中にいる子から、成人になるまでの方々を対象にした国立の子ども病院があります。そこには病棟から出られないお子さんがたくさんいるので、新日本プロレスとしてその子たちにプロレスのエネルギーを届けたいと思っています。

    選手は体がものすごく大きいですけどすごく優しいですし、プロレスラーはエンターテイナーの側面を持っていると思います。子どもたちの笑顔のために、瞬時に行動を起こせるんです。選手それぞれが持つ引き出しの中から子どもたちが喜んでくれることを瞬時に披露できる。プロレスラーってすごいなと思います。

    新日本プロレスでは2カ月に1度、選手が病院に行き、病気やケガと戦っている子どもたちの“セコンド”として活動をしています。また病院側が実施しているクラウドファンディングなども、新日本プロレスは積極的に応援させていただいています。

    あと私の業務について、もう1つありました。“学級新聞”を作ってるんですよ(笑)。

    ———社内報ですか?

    社内報というレベルではないので、学級新聞と呼んでいます(苦笑)。月1回発行しているんですけど、新しい社員の紹介や、みんなの趣味などのアンケートを取ったり、一緒に働く選手も知りたいであろう情報を載せています。社員がどんどん増えているので、選手も誰が社員か分からなくなりますからね。逆に本隊の選手にも協力してもらって、アンケートに答えてもらったりもしています。

    ただ1人で取材して書いているので、誤字脱字が多いんですよ、広報部なのに(苦笑)。この学級新聞、11月で3年目に突入するので、結構長く続けていますね。

    井上さんは新日本プロレスで3つの業務に携わる[写真]兼子愼一郎

    パソコンはてこずった

    ———プロレスは年間百何十試合という興行を行っています。井上さんは、試合日はどう過ごしているのでしょうか?

    ちょうど昨日、後楽園ホールで試合がありました。18時半開始で、選手は16時入り。私は14時に来て準備に取り掛かりました。

    選手控室に対戦カードを貼り、会社からの連絡事項が書かれた書類も貼るんですけど、プロレスラーってぜんぜん掲示物を見ないんです(苦笑)! だから絶対に伝えたいことに優先順位をつけて、選手の視界に入りやすい対戦カードの横に貼ったりしています。

    それから選手が使う道具の準備とドリンクの用意。選手にはそれぞれ入場時に必要な道具やチャンピオンベルトがあるのですが、それを選手が分かりやすい場所に置きます。また、試合中には選手がケガをすることもあるので、そういう時は病院に連絡を取ったりすることもありますし、帰宅する選手のためにタクシーを手配したりもします。

    試合後は、私が選手のいなくなった控室の片付けをするのですが、まあみんないい加減で。「あれがない」「これがない」と私に電話をしてくるんですよ。こんなこともありました。ある選手が「靴がない」と私に連絡してきたんです。私としたら「じゃあ、あなたは靴も履かずにどうやって帰ったのか?」と思うじゃないですか。

    その選手は「リングシューズのまま帰ったから靴を忘れたことに気づかなかった」と。その後、仕方なく私がその選手のいるところに靴を届けました。こんなやり取りをさせられたら、どっと疲れますね(苦笑)。

    ———プロレスラーから会社員に転身しました。難しさはなかったですか?

    精神的なキツさはなかったですね。全く知らない業種でもないですし、会社にいるみんなの顔も名前も分かる。私がこれから始める仕事も何となく想像できる。ただ……パソコンの操作には大いにてこずりました。エクセルもパワポも驚きだらけでした。

    パソコンを使い始めたころは、知りたい情報が載っているアドレスをノートにメモして、それをキーボードに入力してアクセスをしていましたから(苦笑)。今ならコピペでやれば一瞬で済みますけどね。

    まあ、あとは40歳、初めての会社員なわけじゃないですか。初めてのタイムカードとか初めての満員電車とか。私は通勤の時は痴漢に絶対に間違われたくないから、満員電車の中では必ず両手を上げてますよ(笑)。

    ———では、プロレスラー時代はどんな大変さがありましたか?

    練習生時代は、朝、目が覚めるのが嫌でした(苦笑)。起きてから寝るまで大変なことしかなかったです。

    練習生時代にキツかったのは気の休まる時間がなかったこと。私たちは10時から練習して14時過ぎに終わります。そのあと雑用をしていると16時から練習する先輩が来て、そこからトレーニングに付き合わせられて。

    それが終わって先輩のご飯の準備をしたら、夜にまた別の先輩が道場に来て3回目の練習が始まる。3回ともプロを相手に全力ですから。そりゃ強くなりますよね、いろいろな面で。その時のつらさを超える経験は今まで味わったことがないです(笑)。

    ———もともとプロレスラーにあこがれを持っていたのですか?

    小学3、4年の時に初代タイガーマスクが出てきて、友達みんなで応援していました。それがプロレスを好きになったきっかけですが、それからしばらく見なくなって学生時代はいろいろなスポーツを経験しました。

    小学生のころは、野球アニメの『キャプテン』や『プレイボール』に影響されて、少年野球をやっていました。それと水泳もちょっとやっていましたね。中学生になってから陸上を始めましたが、ぜんそくがひどくなり途中でやめてしまいました。高校時代は帰宅部です(笑)。夢中になるものがなかったんでしょうね。

    井上さんは新日本プロレスで3つの業務に携わる[写真]兼子愼一郎

    2度目の入門テストで合格

    ———大学3年生の時から、アニマル浜口ジムに通うようになったそうですね。

    しばらくプロレスを見ていませんでしたが、大学2、3年の時に『ワールドプロレスリング』という新日本プロレスの中継番組を見るようになりました。土曜16時から放送していて、ちょうど私が大学から帰ってきて見られる時間帯でした。蝶野(正洋)さんがG1で2連覇して、Uインター(UWFインターナショナル)の1億円トーナメントが話題になって、すごく興味を持つようになりました。

    私は小さい時からアトピー性皮膚炎とぜんそく持ちで、そのころ症状がひどくなって、先生から「入院するか、体を鍛えるか、どちらかをしなさい」と言われました。それがちょうど私の就職活動の時期だったので、私は体を鍛えることにしました。それで、どうせ鍛えるなら自分が大好きなプロレスラーが経営しているアニマル浜口ジムに行こうと決めました。

    ———その時からプロレスラーを目指していたんですか?

    なりたい気持ちはありましたけど、私はそれ以上に健康な体になりたいと思っていました。新日本プロレスの入門テストが毎年12月にあって、私が浜口ジムに通い始めたのが大学3年の10月ごろ。その年の入門テストは見送り、初めて受けたのが大学4年の12月だったのですが落ちました。

    ———インターネットの情報によると、大学卒業から数年間何をしていたかは「秘密」とありました。

    私もそれを見たことがあります! ですが何も秘密はないですよ(笑)。大学4年の時、1度目の入門テストで落ちて、翌年の2度目のテストで受かり、新日本プロレスに入門しました。ちょっと記憶があいまいですけど、確かそうだったと思います(苦笑)。

    テストに合格した時、私は素直に喜べませんでした。最後まで残ったテスト生である私やタナ(棚橋弘至)、柴田(勝頼)選手、以前新日本プロレスでトレーナーをやっていた新島(英一郎)先生がリングに立たされました。

    長州(力)さんが、「よし、お前らを採る」と言われた時に、私は「あっ、受かっちゃった……」という気持ちでした。私はいろいろなレスラーが書いた本を読んでいたので、これから地獄が待ってるなとどんどん気が重くなりましたね(苦笑)。

    ———それでも入門したことで、プロレスラーとしての道が見えたのではないでしょうか?

    いえ、なれるとは思わなかったです。今でこそ新日本プロレスは選手を育てる団体になりましたけど、当時は「残らなくていい」という指導でしたから(苦笑)。「俺たちについてこられるならいてもいい」という感じで。インタビュー記事には載せられないことばかりで、時には理不尽な指導もありました(苦笑)。

    だから自分の中で決めたんです。どんなにつらいことでも100回までは我慢しようと。そう思って耐え続けたら実際にデビューすることができました。そこからはいろいろな課題が見えてきて、新しいチャレンジがどんどん始まりました。

    練習生時代を振り返る際は、時折、苦笑いを見せた[写真]兼子愼一郎

    後編に続く

    「新日本を世界に広める」インタビュー後編

    15年間のプロレスラー生活は平坦ではなく浮き沈みもあったが、これは自身が望んでいたものでもあった。「打ちこむものが欲しくてプロレスラーを目指した」。しかしケガにより無念の引退。プロレスラーに未練が「ないわけではない」が、切り替えて新たな目標を見つけた。「私のようにプロレスに出会えて良かったと思う人を一人でも多く増やしたい」

    interview & text:dodaSPORTS編集部
    photo:兼子愼一郎

    ※人物の所属および掲載内容は取材当時のものです。

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