「無名からスターへ」インタビュー中編
岡野 雅行さん
株式会社SC鳥取 代表取締役GM/元サッカー日本代表
高校時代に島根県ベスト4の実績を残したものの、日本大学に入学した当初はサッカー部に入れなかった。しかし、その数年後には浦和レッズの一員となり、翌年には日本代表入り。さらにキャリアの折り返し地点に差し掛かったところで“黄金期”の浦和を牽引した。無名からスターへ。岡野雅行さんがステップアップの転機を明かす。
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バッシュで10秒7を記録
———岡野さんは現役時代、驚異的なスピードを売りにしていました。その持ち味に気づいたのが大学時代だったという逸話を聞きました。
本当です(笑)。練習でタイムを計ることがなかったし、「速い」とは言われていましたけど、それまではスピードを活かしてドリブルを仕掛けるようなタイプではありませんでした。
体育学科だったのでいろいろな授業があったんですけど、あるとき100メートルのタイムを計る機会がありました。みんなは授業に合わせてちゃんとしたシューズを履いていたんですけど、ぼくは知らなくてバッシュを履いていました。
一緒に走ったのは陸上部のメンバーでした。「サッカー部は速そうだから一緒に走ってくれない? そのほうがタイムが出そうだから」って誘われたんです。それで走ったら勝っちゃったんです、スパイクを履いた陸上部の選手に。土のグラウンドでしかもバッシュだったんですけど、タイムが10秒7で(笑)。
あとから知ったんですけど、その場に別の大学だった武井壮さんが練習に来ていて、「あのときは焦った」と言っていました。そのときですね、足の速さを知ったのは。
ぼくはもともとディエゴ・マラドーナが大好きでアルゼンチン代表の試合をよく見ていたんですけど、チームメートに(クラウディオ・)カニーヒアという選手がいて、足が速くてロン毛でめちゃくちゃカッコ良かったんですよ。
そのカニーヒアの100メートルのタイムがぼくと同じ10秒7だったんです。じゃあ同じプレーができるんじゃないかと思って、それからはビデオを何回も見て、研究して、プレーをまねるようになりました。
———髪が長かったのもカニーヒアの影響ですか?
そうです。カニーヒアをまねるようになって、さらに成長することができました。プレースタイルを変えて、初めて出た試合で5人抜きができたんです。
ポーンとボールを蹴って、走って追いついてシュートを決めてって、こんな楽なことはないなと。相手キーパーが間に合うと思って飛び出したところでボールに追いついて、無人のゴールに決める。それから大学でも少しずつ有名になりました。
その後大学選抜に選ばれて、「バケモン」と言われていた憧れの同級生である名波浩や藤田俊哉さんと遠征先の同じテーブルでご飯を食べるんですよ。本当にすごい人たちだったので、あのときは「ヤバい、飯食えねえ」というぐらい緊張しました(笑)。
自慢の俊足に気づいたのは大学に入ってからだという[写真]兼子愼一郎
浦和入りを決めた5人抜き
———さらにステップアップして、大学3年のときに浦和レッズに加入することになりました。
2年生のあるときに、大学に呼び出されました。何か悪いことしたかな、怒られるのかなと思っていたんですけど、「あなたを特待生にします」と。そこから人生が変わりましたね。
その翌年にJリーグが開幕しました。でもぼく自身はさすがにJリーグは難しいなと思っていました。
そのとき、本当はダメなんですけど、麻布十番にあるイタリアンレストランでアルバイトをしていたんです。そこにいたバーテンダーがカッコ良かったんですよ。芸能人も来るようなお店で、カッコ良くカクテルを作ってババーンとグラスを並べて。Jリーガーは無理だろうからバーテンダーになりたいなと思っていました。
そんな時期に天皇杯1回戦で「最強」と言われていた筑波大学と対戦しました。勝てるわけがないと思っていましたけど、ぼくが先制点を挙げて、追いつかれて、それからずっと押されてという展開でした。
後半残り10分ぐらいですかね、向こうのコーナーキックでぼくは自陣のペナルティーエリアまで戻りました。そこでキーパーがはじいたボールを拾って、ドリブルを仕掛けて1人、2人、3人、4人と抜いて、最後はキーパーをかわしてゴールを決めました。
そのまま筑波に勝って、それが浦和レッズの加入につながりました。「最強」の筑波を見に、その試合にJリーグ全クラブのスカウトが来ていて、ぼくの5人抜きを見て話題になったそうなんです。
後日、日大の監督からこう言われました。「岡野、驚くなよ。Jリーグの6クラブからオファーが来てるぞ」と。そのとき3年で、どのクラブも「来年来てほしい」という話だったんですけど、浦和だけは「中退して入ってくれ」という熱烈なものでした。
———即決したのですか?
最終的にはクラブと親の話し合いによって決まりましたが、すぐにでも行きたいというぼくの気持ちは伝えていました。高校時代まで無名で、大学に入っても洗濯係だった自分が、こうしてオファーをもらえたことが本当にうれしくて。
ただ特待生にしていただいたこともありますし、親も「何かあったら困るから卒業だけはさせたい」ということですんなりは決まりませんでした。ぼくは心の中で「単位取れてないから卒業は無理だって」って思ってましたけど(笑)。
でも結局はぼくの希望が通り、大学を中退して加入することになりました。
———94年に浦和に加入して、すぐにやれると感じましたか?
いや全然。足が速くてもその速さをまったく活かせなくて。周りの選手はうまいし、スピードがなくても判断が速くて、なかなか入りこむことができませんでした。
———それでも1年後には日本代表に初招集されています。
無名だったのが良かったですね。だから開き直れました。怖いものがないから、思いっきりできたんです。キャンプで海外のチームと対戦するとき、あんなにうまいチームメートがまったく通用しないのに、ぼくはスピードがあるから相手を抜けたりするんですよ。
シーズンが始まってからもチームが勝てない中で、ぼくは練習試合でゴールを決めたりして、それで先発で出させてもらったときにゴールを決めてチームも勝って。それからレギュラーになり、気づいたら代表にも呼んでもらえるようになりました。
———そのときの心境を覚えていますか?
ビックリしましたよ。ちょうど親戚のおじさんと銀座でランチしていたときにクラブの方から電話が掛かってきたんです。「いいか、落ち着けよ」。何事かと思いましたね、こういうときはだいたい怒られるパターンだったので(笑)。
でも全然違って、「代表に選ばれたぞ。うちからは福田(正博/現解説者)とお前が選ばれた。3日後に会見をするから誰にも言うなよ」と。「分かりました!」って電話を切った瞬間に、友達みんなに電話しました(笑)。もうとにかくうれしかったです。
日本代表をW杯初出場に導く決勝点を挙げた[写真]The Asahi Shimbun/Getty Images
劇的ゴールの大きな反響
———岡野さんが有名になるにつれて「野人」というニックネームも定着していきました。
その当時のJリーガーはみんなどこかしらに高校時代や大学時代の先輩がいました。でもぼくは無名高校出身で、日大初のJリーガーだったので、そういう先輩がいなかったんです。まだ10チームしかなくて、選手数も少なく競争は激しかったですし、加入当初は口がきけないぐらい先輩が怖かった。声を掛けてくれるのも同期の水内(猛)ぐらいで。
加入1年目にオーストラリアでキャンプがあり、ぼくは初の海外だったので友達にどんなところか聞いたら「すげえ暑いよ」と。そういえばサッカー選手になったのにまともな服がないなと思って、これを機会にブランドもののTシャツ、短パン、サンダル、リュックなんかを買いそろえました。
それで集合場所の成田空港に行ったら、全員スーツだったんです(苦笑)。「お前なめてんのか」と一喝されました。そのとき初めて先輩に口をきいてもらえました(笑)。いろいろな先輩から怒られる中で、土田(尚史)さんから「お前、野人みたいだな」と言われたんです。
そのころはそういう場にもたくさんメディアの方がいて、次の日の新聞に「浦和に野人が入った」と小さく載ったんです。全国紙に初めて載ったのでうれしくて、今でもその切り抜きを持っています。
その後に、さっきお話しした、初先発で決勝点を決めたときに、テレビの夜のニュースや翌日の新聞で「野人、レッズを救う」と大々的に報じられました。それから「野人」が有名になりました。「野人」が人気になって独り立ちしていくんです。
浦和はもともとお堅い会社で、加入当初は「明日までに髪を切ってこい」とよく怒られていました。でも粘って切らずにいると、「野人」が話題になり、今度は「絶対に切るな」と。グッズが売れるからなんですよ(笑)。
当時は「岡野です」と言っても誰にも分かってもらえなくて、「野人です」と言うと、「おお、野人か!」となるぐらいでした。あるときは「岡野さんってレッズの野人に似てますね」って。「よく言われます」と答えました(笑)。
———その後97年に“ジョホールバルの歓喜”がありました。日本代表をワールドカップ初出場に導く決勝ゴールを決め、一躍時の人となりました。
最初はCMのオファーが来たり、ありがたい話がたくさんありました。その中で驚いたのは高校に呼ばれたときです。ぼくが日の丸を着けて決勝ゴールを入れたことがよほど大きな出来事だったようで、理事長が「岡野君、よくやってくれました。これからはうちもスポーツ校にします」と。それで高校を改名したんです。
でも正直言うと、注目されるのは嫌でしたね。ゴールを決めたのがぼくというだけでフォーカスされて。みんなで戦って勝ったのに、という複雑な気持ちがありました。それに、途中出場でVゴール(延長戦での決勝点)を決めたから、Vゴールの岡野、途中出場の岡野というレッテルを貼られました。代表選手なのになぜか途中出場が増えたり、もともとは先発で結果を出して代表に呼ばれたのに、途中出場がいいという印象がついてしまったみたいで。
また、プライベートでも大変でした。表参道を歩けないぐらいすごかったです。囲まれてしまって目的地になかなかたどり着けなくて。買い物をしていても周りを囲まれて、見栄を張っていらないものまで買ったり。渋谷にある『タワーレコード』ではCDを20枚ぐらい買っちゃいました(笑)。いいこともたくさんありましたけど、大変なこともたくさんありましたね。
ヴィッセル神戸では「いろいろな景色が見えた」[写真]The Asahi Shimbun/Getty Images
歴代で一番強いチーム
———その後2001年にヴィッセル神戸に移籍しました。
そのときはモチベーションを失っていました。海外に行きたかったんですよ。98年のフランスW杯が行われているときにオランダのアヤックスからオファーが来ました。数年前にチャンピオンズリーグで優勝していたクラブで、練習参加もさせてもらい、すごく行きたかったんです。
ほかにも3つの海外クラブからオファーをもらっていました。でも当時は今のように代理人が一般的ではなくて、交渉がうまくいかず残留することになりました。W杯でグループリーグ敗退となり、ヒデ(中田英寿)と話していたんですよ。何が足りないか、やっぱりフィジカルだよな、これは海外で身につけないといけないと。それでヒデはペルージャに行きましたけど、ぼくは結局海外に行けなくて。
それで翌年、浦和はJ2に降格しました。お世話になったクラブを裏切れなかったので、みんなに残留するよう声を掛けて、クラブにも給料を上げてくれるようお願いして、1年でJ1に復帰することができました。そしたら目標がなくなったというか、モチベーションが下がってしまったんです。
サッカーをやめようかなとも思いました。そのころに代理人についてもらい、移籍先を探したらすぐにヴィッセル神戸がオファーをくれて、シーズン途中に期限付き移籍で加入することになりました。浦和しか知らなかったので、いろいろな景色が見えましたね。
そのときのヴィッセルはクラブハウスが仮設で、ユニフォームの胸スポンサーもなかったんですよ。サポーターの方々との距離も近くて、一緒にご飯を食べたり、横断幕を作ったり。浦和とは大違いで、やっているサッカーも全然違うし、別の環境でプレーすることでまたサッカーが楽しくなり、気持ちのスイッチが入りました。
———その神戸を経て、2004年に再び浦和でプレーすることになりました。
神戸に完全移籍して、その後浦和から完全移籍のオファーをもらいました。浦和でチームメートだった(ギド・)ブッフバルトがその年に監督になり、呼び戻すよう言ったみたいで。
やっぱり浦和はJリーグトップクラスのクラブだったのでうれしかったですね。ヴィッセルに加入して、客観的に浦和を見て「俺はすごいクラブでプレーしていたんだな」と思っていましたから。
そう感じられたのもヴィッセルにいたからであって、自分を呼んでくれたヴィッセルには本当に感謝しています。
———そこから浦和はJリーグ、天皇杯、AFCチャンピオンズリーグなど数々のタイトルを獲得しました。
メンバーもすごかったですけど、とにかくチームが一つになっていました。フロントもそう、当時の犬飼(基昭)社長は選手のために何でもやってくれました。クラブハウスを建ててくれたり、選手に足りないものを聞いてすぐにそろえてくれたり。
「自販機が少ないですね」って言ったら、次の日に自販機がバーッと並んでましたから(笑)。サポーターの方が「オムツを替える場所が欲しい」と言ったときも、すぐに作っていました。
チームで言うと、競争が本当に激しかったです。元日本代表と現日本代表、それと外国籍選手が大半を占めていて、よくケンカもしました。でもレベルが高いから楽しいし、試合では負ける気がしないんですよ。歴代のJリーグチームで一番強かったと思います。
(田中マルクス)闘莉王がいて、長谷部(誠)がいて、都築(龍太)、(鈴木)啓太、(ロブソン・)ポンテ、アレックス(三都主アレサンドロ)、ワシントン、ネネ、(小野)伸二、永井(雄一郎)、それにぼくがいて。
埼スタ(埼玉スタジアム2002)には毎試合6万人以上入ってましたからね。ピッチでケンカしても、ピッチ外ではすごく仲が良かったですし、練習に行くのが楽しみというぐらい、毎日が充実していました。
浦和レッズ復帰後に数々のタイトルを獲得[写真]The Asahi Shimbun/Getty Images
interview & text:dodaSPORTS編集部
photo:兼子愼一郎
※人物の所属および掲載内容は取材当時のものです。










